『ファンファーレと熱狂』|185,000字andymoriレビュー(3/6)

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田中元 twitter.com/genmogura

ファンファーレと熱狂
2ndアルバム『ファンファーレと熱狂』。1st発売から、ちょうど一年後の2010年2月発表。
さまざまな人種、年齢層の人たちの写真をコラージュして作られているアートワークも、アルバムを象徴している。前作ではエレキギター、ベース、ドラムと声というシンプルすぎる構成だったが、アコギやトランペットなども取り入れられてアレンジの幅は飛躍的に広がっている。また、一曲の中に詰め込まれるアイデアの量も圧倒的に多くなり、“1984”や“SAWASDEECLAP YOUR HANDS ”では巧みな構成を用いることで、深いドラマを生み出すことに成功している。音楽を作り上げる共同体としては、もはや完成されたと言っていいだろう。


『ファンファーレと熱狂』

2014/9/12

作品全体のテーマ性について触れておくと、この作品はSFのコンセプトアルバムだと考えている。つまり作品に収められている楽曲の多くは、現代の日本が舞台ではない。時代は定かではないが、おそらく近未来ではないかと思う。SF作品である根拠の一つとして、一曲目の1984のタイトルが、ジョージ・オーウェルによる傑作ディストピア小説と同じ名だということがある。また本作で頻出する動物の比喩は、同作家の『動物農場』からの影響と思われる。具体的なことは各楽曲の項で触れていきたいと思うが、僕がアンディモリが別格なバンドであると感じたのは、2ndアルバムにして、突然にSFコンセプトアルバムを放ってきたというところなのだ。そして、SFのコンセプトアルバムであることを、声を大にして喧伝していないところがよいのだ。だって、「SF」「コンセプトアルバム」なんて作ったら、それをウリ文句にする人たちが多いでしょ?具体的な名指しはしないが、ほとんどのミュージシャンが、作品についてベラベラとよく喋る。最近ではCDにセルフライナーノーツが付いているものも本当に増えた。(これはCDを売るための策でもあるのだろうが)レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのボーカルであるザック・デ・ラ・ロッチャは「俺にとって音楽は政治のメッセージを発信するための道具」とまで言ったが、それはアメリカだからできたことだ。ここ日本では、積極的に政治に関心を持つ若者など、五割にも満たないだろう。そんな社会で小山田さんが、いかにして政治的なメッセージと社会風刺を込めたか。その辺りを中心に書いていくと思う。もしアルバムをまだ聴いたことがない人がいるようなら、すぐにでも手に取ることをおすすめする。(『革命』以降の曲しか知らないという人が、意外にいるように思うので……)

1984
ベースの音が短いフレーズを鳴らし、ミドルテンポのドラムから演奏が始まる。そしてこれまでアンディモリの楽曲で聴くことのなかったアコースティックギターの音色が入ってくる。そしてさらにトランペットまでが加わり、どこか郷愁を誘うような音を響かせる。エレキギターとベースとドラムと声しか鳴っていなかった前作に比べると、かなり豪華なアレンジに思える。そしてそれが、全く違和感なく馴染んでいる。84年というのは小山田さんの生まれた年であり、歌われる内容も彼が育った世代の原風景がい。しかしそこには多くの暗喩も含まれる。ストレートなソングライティングをしつつ、その奥底には様々なメッセージが隠されている。まるで、宮崎駿さんの『風立ちぬ』のようなテクニックを、25歳の青年がやってのける。一曲目からぶっちぎりの才覚を見せつけてきている。天才。

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もちろん単に子ども時代を懐かしむラインとも取れるが、これは資本主義・成果主義が生みだす競争社会の暗喩だと思う。それにしても「兄弟のように他人のように」とは、なんと見事な表現だろうか。それはどこか1stでの「友だち」のように、なにか越えられない溝に隔てられているような感覚だ。また、1stからの流れを汲んで考えるのであれば、「就職活動」という受け取り方でも間違いないだろう。小山田さんの目からは、ある時期を境にリクルートスーツに着替え、東京中をあくせく移動してまわる姿が「椅子取りゲーム」に見えたということなのだろう。また、「わけもわからない」という言葉はこのアルバムでたびたび歌われていて、アンディモリを形容する最適な言葉だと思う。小山田さん自身、自分が作り出す楽曲への理解が追いついていないのかもしれない。そして後述するが、ザ・フーの代表曲であるアイ・キャント・エクスプレインの完璧な邦訳である。真っ赤に染まっていく公園=夕暮れというのは、1stの一曲目になぞらえるなら経済的繁栄のたそがれを迎えている日本の暗喩と取れる。自転車の暗喩は、わからない。前作の一曲目がそもそもフォローミーだったわけで、何かを「追いかける」という同じ動作をとっている。けど自転車=アメリカとは読み取れないだろう……。このラインは、暗喩としてよりも、幼少時の思い出をうたうという側面が強いのかもしれない。

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このラインは、あまりひねりなどはなく、ストレートに表現されているように思う。花に囲まれて生まれたというのは、1984年が「セカンド・サマー・オブ・ラブ」を目前に控えていたからかもしれない。セカンドと付くからには当然最初のサマー・オブ・ラブがあるわけだが、それは60年代後半にアメリカで起こったヒッピームーブメントのことである。別名、フラワームーブメント。そのムーブメントのリバイバル、あるいは憧憬として起こったセカンド・サマー・オブ・ラブのことを「花に囲まれて生まれた」と表現しているのかもしれない。あるいはただ、愛や祝福のことを花という比喩にしているだけな気もする……セカンドフラワームーブメントって、言わないですしね。また、「花」という言葉は“16”でも登場する。そして別の形で『革命』の“サンライズ&サンセット”でも歌われる。

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現在40代以上の大人というのは、アメリカからの影響を本当に強く受けている。無意識にアメリカ的なものを植え付けられているか、反発しようとしてかえってコンプレックスが丸出しになっているか、大まかに二極に別れていると思う。しかし、世界を牽引していくアメリカという幻想も、00年代には収束したと見ていい。原因はさまざまであるが、9.11のテロへの対処やイラク戦争などの政治的な要因で、アメリカへの批判が高まった。リーマンショックを象徴的な出来事とし、すでに経済的にも衰退と変化が始まっている。ここ日本において、アメリカ的な文化を愛好する人間の数は15年前と現在とでは格段に減っているはずだ。ガラパゴス化と言ってもいい。1stから執拗に取り上げられてきたアメリカに対する想いも、これから生まれてくる若い世代とは共有されないものなのかもしれない。そういう意味でも、失われていくものへの哀切を込めてこういうアメリカ像的なものについて歌っているのかもしれない。

2014/9/13

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演奏がドラムだけになり、どこかもの悲しい声で歌われるこのライン。(アンディモリの楽曲では、曲の後半に楽器の演奏が少し静かになり、強いメッセージ性を持つ言葉が歌われるという構成が頻繁に用いられる)これは、小山田さんのお姉さんである咲子さんことを歌ったのではないか、という気がする。後述するが、“teen’s”という楽曲で姉のことがダイレクトに描かれているが、そこで

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と歌われているのだ。しかもteen’sは実際に小山田さんが19歳の時に作った曲なのだそう。
咲子さんも小山田さんと同じく早稲田大学の学生だったということで、小山田さんよりも先に上京していたことになる。先に地元を離れたことを「遠くへ行った」と捉えたのか、もしくは咲子さんが亡くなったのがアルゼンチンという異国の地であることから「遠い国の街角」と言っているのか。明確なことはわからないけれど、僕にはこのラインは、姉のことを歌っているように思える。

個人的に、最初に聴いた時は、ストレートに感情移入して苦しい想いをした。詳しくは岡村靖幸さんのレビューにいっぱい書いたんですけど、めっちゃくちゃ失恋してたんですよ。付き合ってた子にすぐに振られてしまって。僕もその子も精神的にちょっと不安定だったんだけど、つまり「裸で泣いてた君」です。で、その子が、大学に入って軽音楽部で楽しくキャンパスライフを送ってるって、言ってたんです。恋人の有無なんて聞かなかったけど、まぁそりゃ、いるだろうと思うわけですその子むっちゃかわいかったし。だから「同じように泣いてる誰かに抱かれ」てるんだろうな……と、この曲を聴くとそんなことを思ってクッソ落ち込んでたんですよね。結局、この曲を聴いて勝手に傷心するようになったのちにその女の子と会って、話してみたら……まぁ、そういう感じでしたよね。

ここから、小山田さんの悲壮ながらも雄々しいスキャットが入る。この声!もちろん1stアルバムも掛け値なしの大傑作だ。あの全てをなぎ倒すような疾走感、溢れだしてくるエモーション、文学性に満ちた歌詞。しかし、小山田さん本人がリバティーンズに触発されたと語るように、一曲一曲はシンプルなロック・パンクの楽曲が敷き詰めてあった。むしろ、エネルギーを制御しないことがコンセプトだったとも言えるだろう。しかし2ndアルバムになり、その冒頭から、一曲の中で様々な感情を有機的に絡み合わせていく展開を見せつけてくる。おそろしいバンドだ。この小山田さんの叫びを聴いて、何も感じない人間がいるとは思えない!

Aメロの後にファルセットで歌われていた

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のラインを、今度は声の限りのシャウトで歌う。こんなに巧みな表現、ただの勢いだけのパンクロッカーが思い付けるだろうか?一曲目から、圧倒的な格の差を見せつけてくる。おそろしいバンドである。

そして歌は終わるが、ドラムの刻むビートが少しずつ加速していく。このあたりの構成が、ザ・フーの代表曲“ババ・オライリー”を思わせる。というかこのアルバムのSF的というか、どこか荒れ果てた退廃的な世界を思わせるところは、どうにも『フーズ・ネクスト』を思い浮かべずにはいられない。最終曲のサワズディークラップユアハンズなどは、フーズ・ネクストでいうところの“無法の世界”にあたるだろう。

2014/9/14

CITY LIGHTS
気だるげにかき鳴らされるギター。前の曲が持つ哀愁のようなものが引きずられない。そしてドラムが拍子を取り、性急なリズムが刻みはじめる。メロディラインがどれだけ優れているかは、自分は言葉にできないので、触れない。しかしこれだけ強烈なフックに富んだ楽曲を、他のバンドは書くことができただろうか。歌うだけでこんなに楽しい気持ちになれるなんて。「よるにー・とぶとりみさいるもまじょーもこえてあのまーちまでゆけ シ・ティー・ライツ! シティーライツ!」歌詞はかなり混沌としていて、このアルバムの内容をかけ足で歌いきっているようなもの。ミサイルも魔女も越えてあの街まで行けという部分などは、アンディモリを象徴とするというか、小山田さんが自分自身に向けたメッセージであるように思う。(芸術家は自分に向けてメッセージを送って良いのだ)

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はじめっから難解すぎる。力ずくという言葉はあまり良い意味で疲れる言葉ではない。地図が嘘をつくという言葉は、小山田さんがそもそも地図を信用していないということがよく現れている。この「大体」の言葉あたりから、意味性の絡みが生じているように思う。歌詞カードを見てみても「嘘つきで大体」となっているのだ。「大体テレビで」ではなく。「地図」は、嘘つきで、テレビで偉そうにスマイルをばらまいていて、女の裸をキャッキャと喰らいつくような存在だということだろうか。これまでの「地図」の使われ方からすると、これは若者たちにレールを敷いている側の存在、つまりメディアや政治家の暗喩ではないだろうか。もしくは、日本という国を牽引する側の存在であるアメリカの隠喩?橋本知事や細野豪志議員、クリントン大統領のスキャンダルを考えるならば、それもすんなりと納得できる。スマイルを「ばらまく」なんて言葉を使う辺り、どこかうすっぺらく腹の底が知れないようなキナ臭い存在であることはたしかだろう。そもそも「キャッキャと喰らいつく女」の「裸」のことを指しているのか……?やっぱり難解すぎ。

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ドカ靴の紳士はチャップリンのことで間違いない。そのチャップリンと共に街から街へタイムスリップするということは、彼が作った映画の世界に入り込むというような意味だろうか。子どもの頃は、と語られているということは、「10年経ったらおもちゃもマンガも捨ててしまうよ」という言葉と似ているように思う。そういう芸術・娯楽にのめり込むという楽しみは、大人には許されていないという意味かだろうか。

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曲はコーラスを迎え、それまで押さえられていたギターが、ここで一気に爆発するかのような分厚い音をまき散らす。ミサイルは兵器。兵器は戦争の、目を覆いたくなるような悲惨な現実の象徴。魔女は架空の存在。架空の存在とはすなわちファンタジー、フィクションの象徴。それらを越えて、あの街≒心の安住の地まで行けと歌っているのだと思う。現実と真正面から向き合い続けることは絶望感や諦念が纏わりついて枷となってしまうし、かと言ってフィクションへの逃避が過ぎても現実に適応する力が弱まってしまう。そのどちらにもとらわれすぎることなく理想に向かうのだ、ということではないだろうか。(小山田さんの歌詞に「あの街」といった類の言葉が頻出することはもはや指摘するまでもないだろう)ただ、完成系を目指して夜に飛ぶ鳥というのはわからない。完成系を目指すというのは、小山田さん自身のことなのか、リスナーのことなのか、楽曲のことなのか。ただ、フォローミーにおける「太陽」の隠喩と絡めて考えるのであれば、夜は太陽が隠れる時間を指していると捉えられる。太陽が翳りはじめた頃に「かくれんぼ もう終わりの時間だよ」と告げたということは、夜に飛ぶ鳥とは、太陽の下では生きられない者のことを指しているのではないか。つまり、アンディモリを、リスナー≒アウトサイダーを指しているという図式である。(アウトサイダー呼ばわりしてすみません)完成系を目指して、というのは、わりとそのまま受け取っていい言葉ということなのかなぁ……。チャップリンの映画『シティライツ』においても、主人公が真夜中の波止場で投身自殺をしようとしている男に向かって「明日になれば、鳥も歌います」と慰めるシーンがありはするが……。

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人身事故については、アルバムの後半の“オレンジトレイン”で触れることになると思う。ここで起こった人身事故と、オレンジトレインで起きた人身事故は、同一の出来事なのかもしれない。そして、スクランブル大画面からのメッセージを「元気を出せって言ってるじゃないか」という、あまりにも素直でポジティヴな捉え方を促す言葉。のちにteen’sという、小山田さんの壮大なネタばらし的な楽曲において

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と歌う口から「スクランブル大画面」という言葉が出てくるということは、まず間違いなく疑わしき存在、醜悪な広告社会の象徴として認識されているはずなのである。渋谷は流行を発信地!というような物言いに対する嫌悪感だ(電通がどれだけ大きな力を持っているか)。今ではインターネットやスマートフォンの一般化により広告の在り方は激変しているが、90年代では「流行を渋谷から発信する」なんていうことが当たり前のように言われていた。その渋谷の中でもスクランブル大画面で宣伝を打つというのは、かなり主流な戦略だったのだ。

取り上げた歌詞以外にも、他のバンドが絶対に使わないような言葉がたくさんちりばめられているが、自分には解読できないので放置するしかありません……。

小山田さん自身が他の曲と比べても「すごい輝いてるんだよ」と語る曲がこれ。正直、小山田さんのインタビューって、ちょっとしたはぐらかしなんかも存在しているように思うのだけど、この言葉は本当に心から出たものではないか。しかし当初解散ライブとされていたスイートラブシャワー公演では、披露されなかった。あの曲をやらずに解散なんて、考えられないだろう……。(ライブCDの選曲や解散ツアーのセットリストを見ると、すごい曲ばかりが外されている感がある)

2014/10/11 追記

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という歌詞について、小山田さんが直接言及しているインタビューを発見した。アバディーン・アンガスとは、牛のことで、その食肉がとても柔らかいことで知られているそう。しかし肉を柔らかくしようとすると大量の穀物を食べさせる必要がある。その穀物が、飢饉に見舞われている地域などに分配されたなら、食糧問題が解決するとの計算が成り立つほどだという。日本を含む先進国の人間が贅沢な食事を取ろうとするがために、貧しい国々を圧迫している。そのような、不平等さの象徴のような物を、「エコバッグ」に入れて買っていく人々。他のインタビューで小山田さんは、エコバッグを一般の人々が使うことは良いことだ、と話していたような気もするが……。「環境にやさしい」ことをしているつもりになって満足しているかもしれないが、まだまだ問題は山積みなのだという皮肉なのであろうか……。私見だけれど、エコバッグって、どこか欺瞞のように思えてしまうことがある。もしくはアパレルメーカーが、物を売るための戦略として意識的に一般化させたふしもなくはないだろうし。ビニール袋の使用量を削減しなければならなくなったのは京都議定書という国際的な取り決めがあったから。そこからスーパーやデパートなどの小売店が、ビニール袋を有料にしたり、ビニール袋が不要だという人にはポイントを付与したりということを始めたという流れだったと思うのだけど、それじゃあ、「エコ」の考え方が一般人に浸透しているかというと、そうではないんじゃないかと……。もちろん、小さなことからでも、何もしないよりはましなのだけれど……。小山田さんは、そういった現代社会が抱える問題を歌の中にちりばめることで「聴いた人が興味を持って、グーグルとかで調べて知ってくれたらいい」と語っていた。小山田さんは、明確に、啓蒙の意図を持っていたのである。このことは僕にとっては、本当に嬉しい。そして同時に、『革命』『光』で戦略を変えてしまうあたりにも悲哀を感じてしまう。「車椅子の死刑囚」にかんしては、実際にそういう死刑囚が日本に存在していて、死刑が執行されたことがあると小山田さんのブログに書いてあったのだが……。これも、簡単に答えの出せる問題ではないけれど、小山田さんは「みんなに調べてほしい」と思った事柄である、ということだろうか。(日本は先進国では数少ない死刑制度の残る国だ)というか、なぜ「アバディーン・アンガス」について、調べなかったのだろうという話です……。こんな文章を書く資格があるのかっていうレベルの問題である。本当にお恥ずかしい……。

2014/9/15

ずっとグルーピー
リズムのキメから入る曲。この曲はほとんどSFというか、現代日本が舞台ではないと言ってよいだろう。

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このラインは、直接的には外来種問題について表現しているように思う。つまり、暗にグローバリゼーション(異種混合)がもたらす恩恵と弊害について踏み込もうとしている。親たちが白人たちを追いかけたことによって、僕たちが暮らしている日本があるという、まぎれもない事実についてだ。アメリカザリガニやブラックバスが、日本本来の生態系を破壊してしまったということは多くの人が知るところだろう。カブトムシについては、調べてみたところ、北海道において少し問題視されているらしい。というのも、もともと北海道にはカブトムシは生息していなかったものの、本土から持ち込まれたことによって住みつくようになったという。これにより農作物被害や他の昆虫との餌場の競争が起きてしまっているという。(出展:美幌博物館ホームページ http://www.town.bihoro.hokkaido.jp/museum/)
しかし一番初めに歌われる、いつか逃がした鳥という言葉。鳥にも多くの外来種がいて、在来種との競合や交雑が起こっているため、問題視されてはいる。しかしここで固有名詞が使われていないのは、CITY LIGHTSでの「夜に飛ぶ鳥」と掛ける目的があるからではないか。アウトサイダー≒夜に飛ぶ鳥が、自分たちが心穏やかにいられる場所を探すことはきっともうやめられないだろう。インターネットや携帯があるために、自分の生まれた場所や生活する空間にとらわれることなどない。国や年齢や性別や身分など関係なく、自分にとって必要な知識や情報を得られるし、SNSでさまざまな人と交流もできる。こういった、「個人レベルでのグローバル化」は、もはや誰にも止められない。そういった意味を込めて、夜に飛ぶ鳥が外来種動物と一緒に並べられているのではないだろうか。

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小山田さんにとっての、ライブハウス、宗教観が現れたラインであるように思う。小山田さんは、ライブハウスについて「好き放題されても受け止める存在。ヤリマンみたいな(笑)」と語ったことがある。どちらも、インスタントなストレス発散、赦しを得るための場所という見解があるということだ。

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シスターは、かなり禁欲的な生活を送る。先に歌ったように、小山田さんから見た教会というのは、涙を流してすっとするために人々が通い詰める場所だという認識なのだろう。ならば、その教会で、信者たちの嘆きや懺悔を受け止めるシスターはどうなのだろう。おそらくだが、ロックバンドもそうだ。特に小山田さんのように、聴く者の感情移入を誘うような歌を書き、かつハンサムであれば、多くの人から感想を寄せられるだろう。自分の意図とは違った受け取り方をされても、作った人間は何も言うことができない。尾崎豊が(小山田さんとクリソツな彼が)、コンサートで自分の曲を熱唱するファンたちに「俺の歌だ! お前たちは歌うんじゃない!」と激怒したのは有名なエピソードだろう。つまり小山田さん自身が、自分と相通じるものがある「シスター」に対する疑問を吐露しているのだろう。詳しいことはわかんないけど多分、いろいろ思うところがあったのだろう。
いろいろやりたかったのかな。

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このあたりの、SFっぽさ。宗教や娯楽のみのすがることで、人は考えることを放棄させられてしまう示唆を含んでいるのではないだろうか。監視社会では、権力者たちは民衆が愚鈍で、余計な思考を持たないよう望む。ジョージ・オーウェルの1984でも、人々は単調な考え方しかできなくなってしまっている。

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ちょっとこの部分は、何を指しているのかわからない……意味深な言葉なのはわかるのだけど。後者に関しては、あらゆる大きな計画などが、実は一個人のちっぽけな願いや望みであることが多いのでは? ということを示唆しているのだろうか。たとえばブッシュジュニアのような大統領や、今の安倍総理などの強硬的な政策を打ち出す政治家たち。その根幹に何があるのかと言えば、個人のコンプレックスや強欲さであったりはしないだろうか?たとえば、ドラゴンボールにおいて、悟空が子どもの頃に戦ったレッドリボン軍のエピソードを思い出して欲しい。その組織のリーダーがドラゴンボールを欲していたのは「自分の背を高くしてもらう」という願いをかなえるためだったという話だ。一見、どこかコミカルというかあっけないエピソードではあるが、よくよく考えるとかなり生々しいよね。

最後のライン

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という、なんだかすがすがしいような、あっけないような、不思議なライン。「なんでこんなことをしているんだろう」と思うような行動をとっている人が、そういうことをする理由って、案外しょうもないことだったりすると思う。外来種問題だって、おそらく誰もがこんなに大きな結果を生むとは思っていなかったはずだ。

2014/9/16

僕がハクビシンだったら
もちろん、前作に収録されている“僕が白人だったら”のパロディタイトルである。単に曲名が思い付かなかっただけかもしれないが、このような自嘲的なセルフパロディができるバンドが、他に(略)ちなみに、ハクビシンも農作物を食い荒らしたり、民家に侵入することがあるという、いわゆる害獣の一種だ。しかし日本に移入してきた時期が不明なため、外来種という判断はされていないのが現状だということだ。小山田さんがその辺りの事情を知りながら、ハクビシンをモチーフにしたのかどうかは定かではない。というか、曲の内容はハクビシン関係ないし(笑)

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クリーム色というのが解釈できない……。生まれたばかりの太陽っていうのは、単純に日本の経済的繁栄があまり長くは続かなかったという意味だろうか。僕の街と家を照らしたというラインは、自分自身もその経済成長の恩恵を受けていたのだという意味か?また寂しくなってたんだ、というあたりが、素直な気持ちだろう。自分は貧しかった日本を知らず、衣食住に困ったことなどない。しかし、それら当たり前のものが失われていくかもしれないのだ、ということ。鼻の意味は、わからないです。

楽曲の中で繰り返し歌われるコーラスは、単純な話で、愛があれば乗り越えられる不幸や苦境が、人生の中にはあるのだということだろうか。まぁ深い意味を抜きにしても、小山田さん自身が、愛されたい願望がけっこう強めらしいので、ただ本心を歌っているだけかもしれない。しかしアンディモリ楽曲ではよく使われる手法だが、同じ言葉が最後には声を張り上げて歌われる。このインパクトの強さと言ったら、ないだろう。Bメロにあたる部分で歌われる、「あの子」の境遇についての部分は、ややとってつけたような感があるというか、これはあまり意味がわからない。小山田さんは、コーラスで自分の本心に近い部分を歌い、それ以外のパートを創作で補っている節がある。その登場人物たちの感情が、コーラスの部分で小山田さんの歌いたいことと交差するというような構造を取っているのだ。

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そううつを表したラインとも捉えにくい。小山田さんの楽曲に通底するものから考えるなら、最高な気分になっていても、そこにはどこか第三世界の不幸の上に成り立っているという意味で「最低」であるはずだということだろうか。わかんね。

2014/9/17

16
口笛で吹かれるメロディから始まる。そしてアコギの弾き語りが始まる。徐々に別の楽器も演奏に参加し始める。小山田さんのルーツにあるという、日本のフォーク音楽っぽい感じがかなり色濃い。「レコード会社の人に「麻生久美子の歌を作ってほしい」って言われて作り始めたら、自分の歌になっちゃった」とのこと。SF色はほぼない。歌詞については、名ラインしかないと言って差し支えないと思う。こんなにもシニカルで、本質をついてこようとする気迫を、他のバンドに見いだすことができるだろうか。

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2つめのラインから、いきなりとんでもない言葉である。これは、一つには、自分たち若者が背負わされている物の多さが表現されているだろう。国債の問題について「国民一人あたりにつき、800万円の借金があります」などという言い方も聞くし、年金問題については若い人間は自分が払った以上の金額が返ってくることはないだろうという諦念を抱えているだろう。解決される当てなどないのに、問題を山積みにしていく無責任な人間たち……空っぽの空、である。“トランジットインタイランド”には、勝ち逃げしてきた老人のラインもある。だが、この楽曲においては言葉をストレートに受け取るのがよいように思う。曲中でも触れられるように飲みに行く約束であったり、何か自主的にやりたいと思っているのになかなかできないことや、仕事や勉強でもそうだろう。人は誰もが、自分の目標に向けて一直線に進んでいけるわけではない。僕個人の話で言えば、岡村靖幸さんのバイオグラフィーが途中で止まってしまっていることや、このアンディモリの原稿も結局8月29日に仕上げることはできなかった。解散延期になったので、ロスタイムとして今書いているけれど。くいしんさんは自分の原稿を待ってくれているし、自分も早く書きたいとは思っている。つまり、約束ばかりが増えていっているのに、怠惰に時間を過ごしてしまう。こういうことは、きっと、多くの人が経験している状況なんだと思う。しかし、なかなか人には言えないことが多いだろう。目標に向かって邁進できないことを、恥ずかしいと思っているから、なかなか人に打ち明けて共有することができない。それは次のライン

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からも読み取れることだろう。変われない明日を許すという部分のモラトリアム感は、“すごい速さ”における

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とも通じるだろう。どこにも行けない彼女たちというくだりに関しては、捉え方がわからない……。どこにも行けない=居場所がない、ということはわかる。家庭に問題や不満がある若者は家にいることを嫌がり、当てが無くとも外出することが多いという話には誰もが納得するだろう。しかし駅の改札を出たり入ったりという部分が、難しい!特にどこか目的地があるわけでもなく、ただ行く場所が無いから何も考えずに放浪しているという意味?もしくは、「出たり入ったり」という言葉が想起させるように、不特定多数の人間とセックスをしているという意味だろうか。どこにも居場所がないと感じている人が(女性に限らず)、性的な繋がりに価値を見いだしてしまうことはよくある話。エヴァンゲリオンのミサトさんに「なんか求められてるって感じがするのよね」という台詞があるように。

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このあたりもまた、ヒリヒリとしたやるせなさを感じさせられる。こんなに厳しく、夢のない表現があるだろうか。「誰か」という抽象的な表現を使っているからには、電話をする相手についてはどこかぼやかせたいということだろう。“1984”において、花に囲まれて生まれたと歌われていたが、ここでは花は枯れてしまったという。花=愛情や祝福の象徴と考えるならば、愛を受けたことがある相手に電話をして、また会うことができるかのような嘘をついているという話なのかな?また枯らしながらというところが、すでにすべてを諦めきっているかのような悲しさがある。84年には良いこと、美徳とされていた考え方や文化などが、現代においては意味を成さなくなってしまったという意味で、花を「枯らせて」しまったということかもしれないが。

どうでもいいことだけど、冒頭の1984と、16を足すと、2000になりますね。もしも『ファンファーレと熱狂』のアナログ盤が発売していたなら、16まででA面とする予定だっただろうか。けど、16は、13曲中の5曲目だし、そんなに区切りがいいってわけでもないよなぁ……。

2014/9/18

ビューティフルセレブリティー
16の余韻を断ち切るかのような、どこか牧歌的で陽気なベースラインから幕を開ける曲。楽曲の中間部分でかき鳴らされる、譜割を無視するかのようなパンキッシュなギター。セレブリティーの女の子に憧れる、労働者階級の男の物語。

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かなり直接的な言葉で、現代社会の風刺をしているライン。ぶくぶくになった犬というのは、我々のことに他ならない。セレブリティーたちは、法的には許されているが道徳・倫理的にはグレーのライン上にある仕事をこなしていく。そしてその手先として、犬を働かせる。どこかで暮らしている他の犬の餌を、住む場所を、権利を奪っているかもしれないという罪悪感は一瞬だけ頭をかすめつつも、犬は餌を与えられ続けている身上もあり、自分の仕事をこなし続ける。果たしてそんな犬たちは、野生に戻ることができるだろうか。ぶくぶくになった自分たちだけで、その巨体を保てるだけの食糧を確保することは出来るだろうか。かつてナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーが“ハンド・ザット・フィーズ”で「餌を与えてくれる相手の手に噛みつく度胸はあるか?」と怒りを込めて歌ったことを思い出す。

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このラインについては、何を歌っているのかわからない。てくてくと行くというのは、セレブリティーに引きずられる生活を逃れて自由に生きているということか?2014年の日本には、現に誰も住めなくなった街というのが存在している。2011年の起きた震災により破損した原発がある付近だ。このアルバムは2010年に発表されているので、小山田さんがこれらの事態を知っているはずはないのだが、もはや我々はそれ起きたことを知っている。僕には、小山田さんがまるで予言者なのではないかと感じてしまう時がある。

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このラインは、“モンゴロイドブルース”と聴き比べると面白い。あの曲では散々「純血」「混血」といった言葉を繰り返し、民族間においてDNSは対して違いはしないという事実を突き付けてきた。それに対してこちらの曲では、「純血」という言葉の後に、臆面もなく「ヤマトナデシコ」と続けてみせる。大和撫子、つまり日本の美人をたたえる言葉である。この曲の主人公があまりにピュアなのか、もしくは労働者階級でどこか粗野な印象すらあることから、純血で大和撫子であるという思い込みをしてしまっているという表現なのかもしれない。しかし、モンゴロイドブルースを書いた人が歌っていることを思うと、あまりに意地悪ないたずらに思える。

この「彼女」は、歌われる描写から考えると、おそらくかなり上流階級の暮らしを送っているのではないだろうか。つまりセレブリティー側の人間、ビューティフルセレブリティーだ。そんな彼女に対して「僕」は、「彼女にキスをするために生きている」とまで言う。しかし持っているギターケースはボロボロだし、唇は荒れたまま。つまり中流以下……もしかしたらぶくぶくになった犬の側かもしれない。ぶくぶくになった犬とはいえ、引きずってしまえる感覚の持ち主であるセレブリティーに、ラブソングを聴かせたいと考えている。芸術や娯楽は、時に、人に想像力を与えることがある。小説を読むことがなぜ推奨されるのかというと、他人の視点から描かれた世界をのぞきこむことで、他人が何を考えているかと知れるからだという……他者性を得られるということだ。この歌の主人公は、ビューティフルなセレブリティーに「愛」を教えたいと考えているのだろう。そして彼女が愛を知ったあかつきには、自分は彼女とキスをしたいと。“ずっとグルーピー”でも、「キスをしたい」というシンプルな欲求に突き動かされて宇宙船を作るというラインがあったが、こういった、一つの事象を繰り返し、時に別の角度から描く小山田さんのテクニックには、本当に舌を巻くしかない。あと、ここで「セックスしたい」とか、そういう言葉を使わないところが僕は本当に好きだ。性的なニュアンスを周到に回避する姿勢がある。邦ロック(敢えてこういう言い方してますが)のバンドとかって、セックスのことをやたらと歌うじゃないですか……嫌なんですよそういうの。岡村靖幸さんはいいんです天才だから。

余談だが(いやこの文章全部余談みたいなモンだけど)、この曲のボーカリゼーション、めちゃくちゃじゃないか?「引きずって」は「引きずつ」と聞こえるし、「僕の魂」のところなんて「ぼくのたましゅー」って言ってる。後者は、確実にそう言っている。ねぇ?呂律が回ってないですよ。これは、レコーディング前に酒でも飲んでいたのか、はたまたハー……全ての真相は闇の中である。

2014/9/19

Transit in Thailand
後藤さんの叩くドラムはすごい。そんなことはアンディモリを聞いたことがあれば誰でも知っていることだと思う。しかし、このドラムはそんな中でもトップクラスにすごいだろう!
やはり段違いの才能を持った人間だ。タイでのバカンスの歌だろうと思う。とにかく狂騒的な、踊るに踊れないダンスナンバー。

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黒人や黄色人種に対して侮蔑の意味で猿と呼ぶことは多いが、そこに白が混じっているのはなかなかめずらしい。差別的なニュアンスよりも、理性を失うくらいの勢いで踊りを楽しんでいるといった意味合いだろうか。であれば、このパーティは人種を問わず誰もが楽しむことができる場所、ということになるだろう。この世界では、タイはバカンスの地となっているのだろうか。けれど、後のラインで

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と歌われているのを見ると、あまりリゾートっぽさは無い。むしろ、今のタイに見られる猥雑なイメージはそのまま、といった歌われ方なような気がする。

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CNNについて念のため説明すると、アメリカで生まれたニュースの専門チャンネルのこと。単純に考えるなら、ここでいう爆発音は事故等ではなくテロや戦争のことを指すだろう。そして資本家たちの熱狂のロードムービーと続くわけだから、こういったテロや戦争が起きる原因を、資本家たちの行きすぎた利益追求の姿勢に見いだしているというのが自然な解釈ではないか。ロードムービーという言葉が使われる辺りが少し気になるが、「戦争映画」とは別の言葉を使おうとした結果なのかな、と思う……。

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これもかなり示唆的な言葉。リタイアメントとは、退職や引退という意味。そのじいさんは、水平線の向こうにブランニューゲームを置いてきたという。安直に読み解くならば、日本をさっさと捨て去り、タイで老後の生活を送るじいさんという意味だろう。なぜ日本を捨て去ったのかは、治安の悪化が原因かもしれないし、自然災害や原発事故のような人災が原因かもしれないし、法規制が厳しくなったからかもしれない。たとえば原発事故が起きた後も、海外への離脱を検討した人はいた。今我々が直面している問題の多くは、上の世代が築き上げたものでもあるはずなのに、だ。自分たちが決定にかかわってきた問題の、責任を取るつもりなどさらさらないわけである。ブランニューゲームとは、若年層の人生と捉えることはできないだろうか。“1984”において「椅子取りゲーム」という言葉が使われていることからも、濃厚な線だと思う。さまざまな問題への解決策を考案することや、行動することを放棄して、このじいさんはタイランドでへ逃げてのんびりと水平線を見つめている。つまりこのラインは、今の老年層の勝ち逃げ感を表現しているのだと思う。他の国の事情というものを詳しく知らないけれど、ここまで、年寄りたちが若者のことを考えていない社会って、あんまりなくはないか……?00年代中盤以降の昭和懐古ブームは、本当に吐き気がしている。端を発することとなった、クレヨンしんちゃんの『嵐を呼ぶ モーレツ! オトナ帝国の逆襲』では、すでのその作品の中で、「大人が昔を懐かしんでいるだけ」という状態は否定されている。しかしそれらをパクるようにして出てきた作品たち(代表:オールウェイズ三丁目の夕日)では、ただただ「あのころはよかった」のオンパレードである。たとえばハリウッドの映画などはそのあたりがとても敏感で、たとえばクリント・イーストウッド監督の『グラントリノ』や、ピクサーのアニメーション『カールじいさんの空飛ぶ家』などは、「年老いた世代が若者に何を遺すか」というテーマが前面に押し出されている。(そして、どちらの作品も受け取る側の若者は白人ではないというところも重要)(日本でも、アカデミー賞に三度もノミネートされた今敏監督が『妄想代理人』というテレビアニメーションで、明確にノーの姿勢を突き付けている。おすすめの作品)そういえば、小山田さんが好きな映画として挙げている『パーフェクト・ワールド』も、クリント・イーストウッド監督の作品だ。エホバの証人に入信している家庭で育った少年と、誘拐犯の話である。イーストウッドの映画のうちいくつかは、共通したモチーフが登場する。父性が欠落した環境にいる若者と、子どもを失った男がめぐり合うというもの。主人公が、なにかしらの宗教と向き合わされるというシチュエーション。前述したグラン・トリノ、パーフェクト・ワールド、『ミリオンダラー・ベイビー』などがそう。これらの作品で、主人公は、「愛する者に何を遺すことができるか」ということを自らに問いかける。そんな作品をお気に入りに挙げるあたり、やはり小山田さんからは日本の老年層が勝ち逃げしようとしているように見えているのではないだろうか。イーストウッドは、古き良きアメリカという、ある意味では幻想的とも言える価値観を体現しようとしてみせることが多い。宮台真司さんは、イーストウッドを「草の根右翼」と呼ぶ。この国の老人たちは、自分たちが積み上げてきた問題と向き合うことを拒み、昔を懐かしんでマスターベーションに浸るか、とっとと逃げ出すことしか考えていないのが実情だろう。しかし、これらの問題を、苦難とは考えさせないようなエネルギーがこの楽曲にはある。バンド史上でも最大級にアグレッシヴでエクストリームな演奏。ダンスパーティでこんな演奏をされても、誰も踊れないだろうっていう。

というか、アルバムのクライマックス曲“サワズディークラップユアハンズ”のタイトルを、なぜかもう連呼してしまっている。こんなことをするアーティストが他(略)

2014/9/20

クレイジークレーマー
アレンジに関して言えば、強烈な個性を放つ曲ではない。しかし、良い意味で(極限まで良い意味で)、忙しなくフックが詰め込まれている楽曲が続くアルバムの中で、ちょっとした小休止になっていると思う。アンディモリはアルバムを通して聴くことを前提にして、曲の配置を行うアーティストなので、その辺りの緩急の付け方は絶妙だ。それでも、小山田さんと藤原さんのアレンジにおける関係性、つまりギターがリズムを取りベースがメロディを奏でるという通常のロックバンドとは違った方法論が如実に表れていて面白い。また、コーラス部分でリズムのキメに合わせて言葉をはめ込む部分はやはり耳を引く。冒頭で、“僕がハクビシンだったら”の印象的なコーラスラインを読みあげる声は、小山田さんの友人とのこと。そしてこの楽曲は、その友人のために作ったのだそうだ。そういったこともあってか、3rd以降のアンディモリ的な部分が強く現れている。ストレートな言葉を、ストレートな曲に乗せて届けるというスタンス。
それにしてもこの楽曲における、短い言葉に真理を敷きつめていく様ときたら……。名ラインしかない!

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小山田さんが公言していることだが、この楽曲で歌われる「ひまわり」とは、タワーレコードの黄色い袋の暗喩である。件の友人が、自分の部屋の壁にタワーレコードの紙袋を無数に張り付けていたらしい。少し異常な光景に思えるが、彼はうつ気味で、薬を飲んでいたとのことなので、実際に病んでいたのかもしれない。小山田さんはそれを「ひまわり畑」とたとえてみせる。このセンスはどう考えても、尋常ではない!どんなかわいい感性してんねん。

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このアルバムで、頻繁に出てくる言葉である。小山田さんの頭のなかがどれだけとっ散らかっているかは、アンディモリの音楽を聴いている人間には痛いほどよくわかる。だが、それはおそらく本人も自覚していることなのだろう。こんなにシンプルな言葉の乱射もあれば、“1984”では抒情と諦念を同時に表現してみせ、“サワズディークラップ・ユアハンズ”では一つの世界の終末と混沌まで描いて見せる。小山田さん自身は、詞を書いて歌うということを純粋に楽しむことができないという葛藤からこのような抽象的なものを作っているのかもしれない。しかしこれは、とんでもない芸術性を秘めていると思う。「一つの言葉、信念にとらわれたくない、定めたくない」という意味ではその姿勢も、モラトリアム的とは言えないだろうか。個人的には、「わけがわからん」はザ・フーの“アイ・キャント・エクスプレイン”の完璧な日本語訳として受け取る。アイ・キャント・エクスプレインとは、十代の少年が、自分の中に巻き起こる強い感情についての歌だ。それは恋愛感情や、ロックンロールを聴いた時に感じることだと思われるが、少年はその感情を言葉にすることができない。言葉にすることができない、ということをそのまま歌にした楽曲だ。きっと、言葉にできないがゆえに音楽を作ろうとするのだろう。それは小山田さんもそのはずだ。このアイ・キャント・エクスプレインという言葉は、「うまく言えないよ」「説明できないよ」と訳されることが多かったのだが、どうにもやぼったい感じがぬぐえない。浅はかだった僕は「やっぱりロックは英語じゃなきゃダメだよなぁ」なんて考えていた。そんなところに「わけがわからんわからんわからんこともわからん」という言葉が叩きつけられた。若者言葉寄りなところもいいし、とんでもない衝撃だったことを今でも覚えている。

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やはり小山田さんは、現代の日本のめまぐるしく移り変わっていく環境に、ついていけないように感じているらしい。2nd以降もさまざまな形で「速さ」に「ついていけない」というモチーフが歌われるが、こんなにもストレートな形で表現されているラインは他にないように思う。一応書き添えると、欧米(とくにアメリカ)へのコンプレックスを抱える日本人をモチーフにした“僕は白人だったら”において

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という、ふざけたラインがあるわけで、こういったスピード感になっている原因は日本がアメリカに追従しようとしているからだ、という示唆も含まれているのかもしれない。小山田さんは「てくてくと行く」ぐらいのスピード感で、マイペースに生きたいと思っているのではないだろうか。そう考えると、“ビューティフルセレブリティー”は、みんながどんどんスピードを追い求めていったために、みんながその街から去っていってしまった、という意味合いだったのかなぁ……。

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思うだけではなく、みんなの前で歌ってやるという高らかな宣言を、友人はどう受け取ったのだろう。何かを肯定するにしても、これだけ強い言葉を選ぶことができる小山田さん。いつになく頼もしく、カッコいい。

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いくつかのセンテンスを結合させているかのような印象のライン。真ん中の「簡単に捨ててしまえる」は、その前後の文章にそれぞれかかっている。つまり「弱虫能なし用なしと皆口を揃えては簡単に捨ててしまう」(あれ、ちょっと違うか)結局人間は、ひとつの真実に到達したとしても、少し噛み締めたらすぐに捨ててしまうということを歌う。やはりここでも、現代社会のスピード感……特に情報に対する……への速さに警鐘を鳴らしているようだ。

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仮面鬱だとか、新型鬱とかいう言葉もが生まれてきた現代社会。精神科医の仕事は訪れた患者に病名を付けてやること、なんて揶揄をされることすらある。ちなみに言えば「鬱ロック」とかいうクソふざけたカテゴリすら提唱されていた、2000年代後半の日本のロックシーンに対する痛烈な冷や水。あのころ、一般的にも「うつ」とか「病んでる」などの言葉はさまざまな場所で目にすることがあった。鬱ロックって、いくらなんでもひどすぎないか?

二度目のコーラスで

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と歌う。元気を出せ、頑張れ、などという言葉は使わない。ただ、お前の好きなタワーレコードに行こうと誘いだす。こういうところ、に小山田さんが本当に優しい人なんだなと思わされる。ここでは断言する形ではなくなるあたり、最低と最高を行き来している感じはする。

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というつぶやきで、楽曲は終わる。聞けば、冒頭と同じ声なのがわかるが、この人はアルバムの完成を待たずにこの世を去ってしまったのだという。小山田さん曰く「薬の飲み過ぎで」とのこと。この曲を歌う時は、その友人のことを考えながら歌っているという。

2014/9/21

ナツメグ
とても短い曲だ。短い曲にもかかわらず言葉はギュウギュウに詰め込まれているので、かなり抽象的な印象になってしまっている。もちろんそれも、意図したことではあるのだろうが。

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やたらと渋谷のスクランブル交差点が登場してくる。小山田さんの、望郷の思いと、東京に来て何をしたらいいのかわからないといった彷徨いの念が現れているラインだと思う。

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小山田さんは、ああ見えても昔はやんちゃな悪ガキだったのだという。これは実際に起こった出来事だとしたら、そのことを未だに思いだして悔やんでいるということだろう。ラストアルバムの“ゴールデンハンマー”でもかなり近いシチュエーションが歌われている。

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また「天気」への言及だ。5時のサイレンが鳴り、6時の一番星が瞬き始める前には、雨が降るだろう予期しているのだろうか。

2014/9/22

バグダットのボディーカウント
行進曲風のドラムだが、やはりどこか意外性というか、普通の人なら入れない音が入ってくる。一応書いておくと、バグダッドはイラクの首都であり、ボディーカウントは直訳すると死亡した死体を数えるという意味だ。タイトルこそこうだが、曲中で

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と歌われていることからわかるように、実質的にはアメリカについての歌。

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みどりいろの風、という言葉が理解できません……“ライフイズパーティ”では「サフラン色の風」だったのだが……。戦争やイラクから連想していくと、夜間のミサイル発射映像などが、やたらと緑がかって見えることをご存じだろうか?(ミサイル発射に限らず、夜戦全般がそう?)暗視レンズのようなものを通して見るとこうなるということ……?

少し探してみたが、↑の映像もイラクが舞台となった戦闘のようだ。ちなみにイラク戦争の前からアメリカは何度もイラクを叩いており、1998年には「砂漠の狐」という作戦名でミサイルによる空爆をしかけている。「あの日」という言葉からも、過去の出来事を歌っているように思うのだが……これが合っているかはわからない。

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アメリカ軍の戦死者は、その身体を国旗に包まれる。そして葬式では、別れを告げるラッパが吹き鳴らされる。ここでファンファーレという言葉を使っているのは、アルバムタイトルと掛ける目的もあると思う。つまりアルバムタイトルのファンファーレとは、アメリカが吹き鳴らすものであった、というネタばらしでもあるだろう。ラブリーブラザーが、大義も何もない戦争のために死んでしまっても、アメリカは夜明けまで踊りを止めるつもりはないようだ。未だにマニフェスト・デスティニーを気取っているのだろうか。

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サガルマータは、ネパールの言葉でエベレストのこと。シェルパとは、ネパールに住む民族で、登山家がエベレストに登る際にガイドをしてくれる人たちがいる。(僕は少数民族だと知らず、シェルパとは雪山登山ガイドを指す言葉だと思って記憶していた……)このラインについては、勉強不足もあり、理解が及ばない……申し訳ない。ただ、2000年代に入ってから、ネパールは緊迫した政治状況となっており、この曲が作られたであろう2009年には抗議デモを治安部隊が制圧するという出来事が起きている。(ちなみにこういう事態、日本も無縁では無くなりつつありますね。そういう教訓を描くのがSFの役割の一つでもあります)この政治状況に、アメリカが一枚噛んでいるということを暗喩しているのだろうか……。ネパールについてのウィキペディアを読む限りでは、2001年にネパール国内で内戦が起きていた頃に、アメリカが片側の勢力に武器を送るなどの支援をしていたことはあるもよう。(非常な勉強不足を痛感しております……)背中を押すというのは、日常的には悩んでいる人を後押しするような意味で使われることが多い。その意味のままでも、内戦で自分たちが支持する勢力に武器を送ったという事実を後押し=背中を押すという解釈はできる。しかしここでは、どこかしら「突き落とす」というニュアンスにも取れるように思う。他国に侵入してきたアメリカが、その国の中をガイドしてくれた存在(シェルパ)を、エベレストの崖からあっさりと突き落としてしまう。もしくは、エベレストという世界一高い山を持ち出してきているところから膨らませると、世界の頂上を目指すアメリカというニュアンスが込められているのかもしれない。自分たちがトップに立つためであれば、他者を(自分たちに協力させた者を)蹴落とすこともいとわないのだと。

イラク戦争の「ラブリーブラザー」について、『告発のとき』という映画が、秀逸な出来なので、ぜひとも観てほしい。同映画のパンフレットに、戦場カメラマンの渡部陽一氏が「戦場のパラドクスに毒される兵士たち」という題のコラムを寄せている。一言でまとめるならば「戦争やイラクに対して無知な、今時の若者たち」が「大学進学や結婚、商店の開業などの資金を集めるために兵士に志願した」のである。そんな彼らは、戦場で人を殺したり仲間が殺されたりするのを目撃する。一年もの間。しかもその戦争の大義であったはずの大量破壊兵器は、イラクには存在しなかった。帰還してきた兵士たちに感謝を捧げる国民はいただろうか。アメリカでは、イラク戦争がいかに悲惨で無意味な戦争であったかを描いた映画がたくさん作られている。イラク戦争を称賛する映画は、今のところ観たことがない。アメリカ自身が内省の時代を迎えているのだろう。

アジカンの後藤さんが、フレーミング・リップスを例えに出しながら「ポップなのに政治的な曲を作りたい」と語っていたのだけど、この曲はまさにそうだろう。ちなみに、偶然だとは思うが、アンディモリの解散ライブとされていたスイートラブシャワーの会場で、アンディモリのライブ前にフレーミング・リップスの『ソフト・ブレティン』がループで流されていた。誰が選曲していたのだろう……。あと、なぜ後藤さんがラップの方向に走ってしまったのかはわからないけど……。「日本のバンドって、ワールドミュージックとかに走っちゃうじゃないですか」とは言っていたけど、ロックをやりつつ同じことの繰り返しにしないための方策がラップ導入だったのだろうか。具体的に言葉にしていくという方向性の先に、ポップさがあるとは思えないのだけど……。

2014/9/23

オレンジトレイン
儚げな単音のリフが規則的に繰り返されるメランコリックな曲調。夕暮れ時の人身事故で、車内に閉じ込めをくらってしまうという歌。正直な話、この曲の全体がどういうことを意味しているのか、理解が及ばない。コーラスにあるように、主人公の乗った電車が人身事故にあってしまい、「君」との約束の時間に間に合わないというシチュエーションなのだとは思う。しかし感情を押さえこんだかのような言葉選びや、寓話的な要素が散りばめられているところを見ると、やはりここでも小山田さんは容易に本性を現さないでいるつもりらしい。個人的には、アンディモリの中でも特に解読を進めることができない曲です……。

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波に乗るというのは、流行だとか、周りの人に流されるということの表現だろうか。その意味であれば、ガラクタというのは、これまで流されるように手に入れてきた物のことを指しているという解釈が成立する。つまり、その時は波に乗って買ったものでも、時間がたてばすぐにガラクタと化してしまうということ。壊れる、故障するということではなく、価値が落ちていくという意味合いでのガラクタだ。それ以外の解釈が思い付きません……。

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ジョージ・オーウェルの『動物農場』においては、豚は頭脳労働者であり指導者だが、ここで歌われる豚はそうは見えない。単に、「醜い存在」として豚という言葉が使われているのだろうか。この「豚」という言葉に付いては、次曲でも登場するので、そこであらためて考えてみたい。目配せという言葉は、あまり素敵な意味で使われる言葉ではない。何かをこっそりと申し合わせている人間たちの間で使われるサインだと取るのがいいだろう。(何せ小山田さんは天才だ。些細な言葉遣いに暗号を忍ばせてくる)

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ここでもまた太陽に関する言及がある。カウントしてはいないけれど、このアルバムの中で一番多く歌われる言葉ではないだろうか。これまで「赤い太陽」「海に沈んでいく生まれたばかりの太陽」など、太陽が地上から去ってゆく姿は多く描かれていたが、ここでは既に夜になっている可能性がある。夕焼けに照らされて車内がオレンジ色に染まっているというニュアンスで「オレンジトレイン」なのかと思っていたけど、そもそも電車がオレンジ色なだけなのかもしれない。断言できることは、この歌の主人公は、太陽が沈んでいくことを受け止め、諦めに至っているようだ。そして体温は、死んだら失われてしまうもの。この楽曲は死を強く連想させる言葉で埋め尽くされている。

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先のセンテンスでは、豚たちは電車に「乗り込んでいく」と歌われていたのに対して、こちらでは「吸い込まれていく」という表現になっている。乗り込んでいくという言葉からは強い能動性が感じられるが、吸い込まれていくという言葉はどこか思考停止をしながら行動しているような印象だ。気遣いながらと言うものの、どこかよそよそしいような印象。主人公は豚たちに監視されており(目配せ?)、そんな状態に慣れてしまっているということだろうか。どちらにせよこの主人公からは、生命力のようなものが感じられない。オレンジトレインが何かに吸い込まれていく、というような文章と取れなくもないけど……それなら、電車自体が動いていると取れるような言葉を選ぶはずだ。

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「迷惑そうな女の子」に会いに行こうとしていた、というのは少し考え過ぎだろうか。しかしこれはコンセプトアルバムであり、そういった群像劇のような在り方をしていてもおかしくはない。空は乾いており、“ナツメグ”の主人公が心配している夕立はまだきていないようだ。

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いつまでも続くのかというのは、事故の処理作業が長引いているという意味合いだろうか……。人身事故の被害にあった人も、逃げ場所を探した結果なのかもしれない。

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筑豊本線とは、小山田さんの出身地である福岡県を走る路線だ。ただ、小山田さんがこの路線を日常的に使用していたかどうかはわからない。ここで筑豊本線ということばがでてくるということは、それとオレンジトレインは別の路線ということなのだろうか……?渋谷から出る電車であるとの解釈が妥当であるような気もするのだが、そうするとなぜ福岡の路線が同じラインで歌われるのか、必然性が思い当たらない……。小山田さんにとっての原風景、「逃げ場所」が福岡、筑豊本線から見える景色……ということか?まぁ映画等ではよく使われる手法で、たとえば『サード・パーソン』『ビフォア・ザ・レイン』という作品は群像劇であり、それぞれの場面に出てくる人間たちが少しずつ関わりあっているはずなのに、起こっていることがどこか食い違う部分があるというもの。敢えてそれぞれの場面で齟齬が生じる事実を見せるという手法があるのだ、ということだ。

2014/9/24

SAWASDEECLAP YOUR HANDS
前の曲とは打って変わり、かなりエネルギッシュな演奏を見せてくれる。僕はアンディモリで一番好きな曲ではあるのだが、それは1stからここに至るまでの旅を経たから強い想いが生まれてくるのだろうと思う。初めからこの曲だけを聴いていたとしたら、全く違った感情を覚えていたかもしれない。本当に、命の輝きがそのまま音になったかのような曲。この楽曲のすごいところは、SAWASDEECLAP YOUR HANDSという言葉が何度も繰り返し登場するのに、ほとんど全てが別のメロディーで歌われているというところ。一つの曲の中で、一つの単語にこれだけ多くの意味を付加させようとした人が他にいるだろうか。小山田さんの美学が、ここに一つの結実を見ている。この楽曲は、舞台が現代日本ではないと言うことをもはや隠さなくなっている。かなり荒廃しており、主人公はおそらく自由を奪われた身だろう。やはりザ・フーの“無法の世界”を思わせる。また、一人称、二人称、三人称と、視点がどんどん変わるところも特徴。小山田さんが自分自身へのメッセージを炸裂させている。

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とても低い声で歌われる。風という言葉は、バグダッドの~で何度も繰り返し使われた言葉である。若干解釈に無理があるような気はするが、風とはアメリカ的なものの象徴として歌われているのではないだろうか。(ライフ・イズ・パーティにもあったよねサフラン色の風)また、影という言葉は初めて出てきたように思うが、その性質に注目してほしい。影というのは、光源の逆側に現れるものである。このアルバムの中で頻繁に使われた「太陽」に照らされた物は、その太陽とは逆側に影を作る。つまり太陽に向かって追い立てられるように歩いている人間の歌なのだろう。小山田さんは現在30歳で、僕は27歳だ。実感として、アメリカ的な文化にかなり強く影響を受けてきたように思う。幼いころは一週間のうち、3~4日はハリウッド映画をメインとした洋画を放映する番組があったし(神奈川で育った)、洋楽ももっと身近に取り扱われていたものだ。(もちろん、日本におけるハリウッド映画の浸透率の低下には、テレビ会社が映画を自社制作し、宣伝を行う体制をとるようになったことも要因ではあるが)何度か書いてきたが、今度はそのような一極的な体制はなくなるだろう。これは世界中に見られる問題で、インターネットの恩恵とでも言おうか、宗教を信仰している人の数は減少しつつあるそうだ。誰もが好きな時に好きな情報にアクセスできる時代なのだから。それにしても、人間のことをタンパク質と呼べる感性よ。

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前の節とは変わって、今度は高い声で歌われる。声の切り替えが早くはないかい? と思ってしまいそうになるが、なんのその、バンドアレンジがアルバムのクライマックスにふさわしい構成の展開を手助けしてくれる。そしてこの段で歌われていることの、なんと容赦のないことだろう。「醜い顔を隠す」と言うのは単に自分の容姿がコンプレックスなだけかもしれないし、「何も言えないでうつむく」というのは自分をアピールすることができないというだけのことかもしれないし、これらはまだ現代日本とも取れる描写となっている。しかしこの先の展開を考えれば、これらは実際に「足を引きずらなければならない」「顔を隠さなければならない」「何も言うことができない」状況なのかもしれない。過酷な労働のせいで疲労が溜まり、足がまともに動かないのかもしれない。もしくはリンチにあって負傷しているのかもしれない。最悪の場合、奴隷のような扱いを受けており、足に枷がはめられているのかもしれない。顔面そのものの造形が醜いのではなく、「醜い」とののしられ差別されるような特徴を持っているのかもしれない。ネット右翼たちが「朝鮮顔」というような言葉を使っているのを見たことがないだろうか?ここでは、「日本人っぽい顔」をしているというだけで、不当な扱いを受けることになってしまうのかもしれない。何も言えないでうつむくというのは、自分がどんなことを言っても反感を買って暴力を受けると言うことかもしれないし、そもそも自分の話せる言語が相手に通じないということかもしれない。

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ここではもう、我々現代日本人が自分を重ね合わせられる言葉はない。2014年に日本で暮らす僕たちが、治安はともかく、言葉と食事の心配をすることなどあるだろうか。一部の、方言が強い地域を除いては言葉が通じあって当たり前(方言が強いと言っても、沖縄のような場所の場合、そもそも琉球王朝が自治していたのだ)。どこにでもファストフード店やコンビニがあるため、旅先の料理が口に合わなくても食事にも困らない。また、これから向かう街のことを「教えてくれ」と請うところから考えると、どこに向かっているのかを知らない。この曲の主人公は本当に奴隷として扱われているのかもしれない。そして、空の下を歩き続けて眠らなければならない、電車やバスなどを使えないような状況なのだ。

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とんでもなく荒廃した世界に暮らす主人公である。もはや主人公が住んでいる場所は、人権という概念はほとんど意味をなしておらず、法治国家としての機能が失われてしまっているようだ。整形も「した」と歌われるが、この主人公は誘拐され、身元がわからなくする目的で無理やり整形され、肌の色が変わる手術か何かを施されたのかもしれない。もしくは主人公の人種は奴隷としての価値が低いために、品種改良されたのかもしれない。SFではよくある展開だが、「人間とは何か」「自分とは何か」という、自らのアイデンティティーについての哲学的な問いだ。ラッドウィンプスが“ソクラティックラブ”という曲で

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と歌ったが、自分の容姿がアイデンティティーの形成にとってどれだけ大きなものであるかという問いかけを、物語では実際に描ける。安部公房の『他人の顔』などがわかりやすいが、顔や身体が変わってしまうというドラマは無数に存在する。小山田さんはそこまでは描かないが、この曲がアイデンティティーにまつわる歌なのは間違いないだろう。いずれにせよ、かなりストレートに厳しい言葉が詰められたラインだ。

2014/9/25

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この言葉は、ここまで一人称で語っていた人間とは違った視点から出てきた言葉に思える。同じ人物であったとしても、行き先を知りたがっていた頃の主人公と比べて、かなり吹っ切れたようなことを言うようになっている。より達観しているとも言えるし、もはや抵抗することを諦めてしまっているともいえる。あるいは、説明がつかなくても、人は行動してしまうことがあるという、わけがわからん感覚。また、乗り込んでいくというのは、“オレンジトレイン”で、豚たちの動作でもある。ここまでのラインで少し思うのは、この「アイデンティティを捨てる」という行いが、どこか就職活動を思わせるということ。僕自身が就活とちゃんと向き合わなかったからかもしれないが……。小山田さんと藤原さんは大学時代からバンドを組でいて、その頃は四人で活動していたらしい。そして就活の時期を迎えるにあたって、他の二人は脱退してしまったとのこと。失礼な言い方になってしまうが、早稲田大学の新卒というブランド切符を使わないというのは、かなり大胆な決断に思える。しかし同時に、日本の大学生の就活って、はたから見るとかなり異様なものがある。みんなが髪を黒く染めてリクルートスーツに身を包み、履歴書の書き方の勉強や面接の練習にいそしむようになる。1stで言及したように、小山田さんの書く詞はモラトリアム感がとても強く、社会に乗り込もうとしている人たちを遠巻きに眺めているような節があった。しかし、そんなかつて仲間であった就活生たちを非難するでもなく、ただ、自分とは違うのだと淡々と諦めまじりに歌っていた。本当は、自分のアイデンティティーを捨ててでも、社会に乗り込んでいくのが正しいのではないかという葛藤が存在していたのではないだろうか。半ば強制される形であれ、社会に組み込まれていくべきではないのかと。[Champagne]というバンドが“?”という曲で

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という歌詞を書いている。このようにして、就活の馬鹿馬鹿しさを歌うことも出来るのだ。本来であれば。小山田さんは常に、自分の正当性を主張するということの傲慢さと、溢れだしてくる言葉や感情を吐き出したいという想いに板挟みにされている。(僕はシャンペーン好きじゃないです。シリアで育った人間が、今シリアがこんな状況になっているのに、そのことに対する歌を作らないというのが理解できない。なにがロックだよ。一つもロックンロールじゃねーじゃん)

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この辺りからはもう、SF的なニュアンスは読み取りにくくなってくる。ここで歌われるシンガーが小山田さん自身だとは思いにくい。だって、小山田さんが歌う場所がガラガラにはならないやろ。田中宗一郎さんがピート・タウンゼントを「かつて「ロックンロールだけが世界を救う」と真顔で言ってのけた男」と書いていたことが僕にはどうしても忘れられない……これは偶然か?後に“teen’s”でも似たようなシチュエーションが歌われていることから、これは、政治的な信念が込められた歌なんて、誰も聴きにこないということ。そう考えているからこそ、小山田さんは、鋭い風刺をこのような暗号の中に隠さなければいけなかった。騙されながら、しかし騙されていることに気付かないまま、みんなで手を叩いている人の方が圧倒的多数だ。そして、そういった人たちの方が苦悩が少ないという意味では幸せなのではないか。(しかし、どこかに必ず落とし穴はある)この楽曲自体も、後に発売されるライブCDには収録されなかったし、解散ツアーでも披露されることはなかった。武道館では聴くことができるだろうか。

2014/9/26

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ほとんどやけくそという言葉……ダンスミュージックと言われてはいるが、アンディモリにこれほどしっくりくる言葉もなかなかないと思う。がむしゃらで、やけくそで、つんのめりながらも必死に音と言葉を紡いでいく。どこか、ダンスミュージックという言葉に思考停止のニュアンスを読みとれないだろうか。音楽を聴くというよりも、踊るために鳴らされる音楽……ある意味では原初の音楽がそうであったように、深く考えさせるものではなく、ただ無心に音を鳴らすというような意味合い。(なんか説明できてないな)

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この曲は本当に、どうしてこうも強烈なラインが多いのだろうか。現代社会への痛烈なメッセージ。テレビについて肯定的なニュアンスを、おそらく小山田さんは込めていない。“teen’s”でも吐露されるように、広告を無邪気に信用できる時代ではなくなってしまった。20世紀はテレビやラジオなど、一度に大勢の人に訴えかけるメディアが発達してきた。それは同時に、広告が力を強めていくという側面もあったのだ。物を「どう作るか」ではなく「どう売るか」ということに誰もが力を入れるようになった時代だったのである。また、リーマンショック以降に顕著になった傾向だが、CMとは別に、番組内で特定の商品や店を紹介することがあまりにも多くなっている。(あれも立派な宣伝・広告なんですよ)そうでなくても、家にいる時はテレビをずっと見ているという人は、意外と多い。テレビを全く見ない人と、ずっと見ている人は、かなり二極的だ。あるコミュニティでは全然テレビを見ない人たちばかりだし、あるコミュニティではテレビのことばかり話しているという経験はないだろうか?偏ったアイデンティティーを醸造する箱、という偽悪的な言い方が可能だ。

また、PC≒インターネットに誰もが触れられる時代になったことは大いなる恩恵でもあるが、弊害も数え切れないほどある。たとえば「ネット右翼」などという存在は圧倒的に増えただろう。かくいう自分も、学生時代はかなり右翼的な考え方を持っていたと思う。自分にとって都合のよい情報だけを延々と摂取し続けることができる。こちらもテレビとは違う意味で、偏ったアイデンティティーを生みだしていると言える。

それらに加えて、アイデンティティーも放棄しろと歌われている。かくいう小山田さん自身、アイデンティティーを捨てることなどできていないというのに、だ。しかし、それでいいのだと思う。芸術家というのは、自分自身が全うできていない理想を歌い上げてもよいのだ。
別の言い方をするなら、自分に対するメッセージを送るという行為、聴き手に希望を託すような行為が許されている。そしてそれは、芸術家の本分であると僕は思う。自分たちの現在をリプレゼントすることしか脳の無い凡庸なロックバンドでは一生たどり着けないことだ。たとえば宮崎駿さんが『風立ちぬ』で描いたのは、恋愛≒結婚と、仕事≒自分の好きなことを両立する主人公だ。もちろん異議はあると思うが、彼はあの映画でそういうことを描こうとした。
描こうとして、しかしニヒルなものも含んでしまったとは思うが、おそらくやろうとしたのは、自分には出来なかった仕事と家庭生活の両立だろう。宮崎駿さんは家庭を顧みず、仕事に打ち込み続けたというのは有名な話。それ以外でも、宮崎駿さんの作品は自分には叶えられない理想と、子どもへのメッセージでいっぱいだ。自分を奮い立たせるための手段として自分の作品を使っても、自分が履行できていない目標を描いてもよいのだ。そういう想いが込められた作品こそ、人に感動を与えるのだから。

こうして、ごちゃごちゃと余計なことを考えてしまうような肥大化したアイデンティティーを捨てろと歌う。生きていくために必要ではない知識を詰め込むためのテレビとPCを捨てろと、小山田さんは歌う。こんなにもはっきりと、アイデンティティーの放棄を迫る歌が、他にあるだろうか。

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“ずっとグルーピー”で歌われたシスターの姿と、ここで歌われるグルーピーはどこか被るように思える。

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と、歌うという行為も被っているだろう。というか、シスター、歌うし。聖歌とか。シスターやグルーピーは、自分が「なぜ歌うのか」という理由など知らないし、考えたこともないのではないだろうか。それだけ従順≒敬虔な姿からは、自分のアイデンティティーを守ろうという姿勢は感じられない。ある意味では思考停止と呼べるかもしれないし、しかしそこには美しさも見いだせる。理由なんか知らん。ただ本能に近いレベルで、突き動かされるようにして祈りと歌を捧げるのだろう。それにしても、このさまざまなものを一緒くたにして「グルーピーズ」と呼んでしまう小山田さんの感性。それも、これまでの曲にちりばめてきた言葉が、ここに集約される感じ。音楽においては、僕はこんな経験をしたことが無い。これは映画や小説などの、物語的な創作における手法だろう。やはり天才だとしか思えない。……と、一つ書き足すと、小山田さんは高校時代に演劇部に所属していて、脚本を書いたこともあるらしい。

2014/9/27

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ぜんっぜん意味が分かりません!村上龍さんの著書に『5分後の世界』という有名なものがあるが、ここに繋げるのはちょっと無理があるようにも思う……。しかし、シチュエーションは似ていなくはないので、繋げたくなってしまう。『5分後の世界』は、現代日本で生活していた男が、突然別の世界にトリップしてしまったという物語である。トリップの原因は分からないが、そこ我々の住む世界とは別の可能性を歩んできた世界であるということがわかる。日本人の数が激減していたり、地下に国を建造して連合軍相手にゲリラ戦を続けていたり、という設定である。ここで主人公の男は、日本軍に協力することになる。その辺りの展開、そして物語のラストに主人公が取る行動などは、まさに

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なのだ。個人的には、小山田さんは絶対にこの小説に影響を受けていると思う。ただ、5分前の正解っていう言葉の意味になると、本当にわからないです……。正解というのは、その時点においては正しかったことだとしても、時が経つにつれて別の解釈が生まれてくるかもしれないのだということだろうか……。たとえばヒトラーだって、クーデターで政権を取ったのではなく、正当な手順を踏んで選挙に出馬し、国民から選ばれたのだ。また、おおいぬ座VYがどういう意味なのかは、本当に分からない……。この恒星は、太陽の約1420倍の直径というとんでもなくデカイもので、今から1200年後には超新星爆発を起こしてブラックホールになるかもしれないのだという。“シティライツ”の歌詞にも超新星という言葉が出てくるが、そっちも「はじけて」と言われているし、爆発することが前提として捉えられている感があるな……。おおいぬ座が爆発してしまったら、自分たちが住んでいる地球もこっぱみじんになるんだぜ、っていうことなのだろうか。こんなにデッカイ星もあるんだから地球なんてちっぽけなもんだろ、っていうこと……?

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このラインも、あまりにも多くの情報量が詰め込まれているように思う。「見飽きてしまった天才」というのは、テレビやマスメディアに対する不信が表現されているのではないか。
だって、「天才」って言ってもてはやされる人なんて、無数に出てきてすぐに消えていくじゃあないですか。豚を見飽きるということは、金や欲の亡者たち、という意味合いなのだろうか……。『動物農場』のラストでも、豚は、そのような汚い、まるで人間のような存在として描かれていた。そういう存在を見飽きてしまうぐらい目の当たりにしてきたということだろうか。
……と思ったら、アルバム発表前のメンバー鼎談で「豚」という言葉が使われていた。インタビュアーの「思考を停止して流された方が生きやすい世の中だからね」という発言に対して「そう、でも、そんなだったら地べたを這いつくばるブタと一緒。ここで言うブタは、宇宙の運命に逆らえない神様以外のあらゆるもので、もしかしたら存在しないかもしれないもののことなんだけど」と、小山田さんが発言していた。それに対し後藤さんが、「宗平は自分のことを特別だと思いすぎ」と反論、さらに小山田さんが「俺は自分がブタであることをわかった上で、お前もブタだって言ってるの」と……。地震速報については、この楽曲が作られた2009~10年の頃というのは、そんなに多くは無かったように思う。この楽曲の世界は天変地異が、見飽きてしまうくらい日常的に起こっているということなのだろうか。しかしおそろしいのは、このラインが、2014年現在を見事に言い当ててしまっていることだ。3.11の震災が起きた頃は、誰もが震えあがっていたものだ。しかし、以前にもまして地震が多く発生するようになっている現在、そのことを気にかけなくなってはいないだろうか?それに、震災発生直後は「絆」であるとか「がんばろう日本」などという上っ面だけのうすら寒い言葉が頻繁に唱えられていたが、現在、どれだけの人が東北の復興について真面目に考えているだろう。「見飽きてしまった」のである。こんなラインを、地震が起こる前に書いてしまった小山田さんの鋭さたるや、とんでもないものがある。もともと小山田さん自身、大地震への危機感を人並み以上に抱えてはいたらしいが、まさか見飽きてしまうことすら言い当ててしまうというのはおそろしい話である。

2014/9/28

グロリアス軽トラ
アルバム最終曲。ミドルテンポで、特に楽曲におけるハデな展開などもなく、どこか牧歌的でのんびりした雰囲気の曲だ。さまざまな地名が登場するところは、SF作品の延長として考えるなら、もはや国境という考え方がまともに機能している場所が少なく、主人公たちは気ままな旅を続けているのかもしれない。前の二曲が、あまりに重々しい現実を歌っていたぶん、この曲はどこか嵐が過ぎ去った後の青天を思わせるようなおだやかさがある。

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解読できません。天使と人間と悪魔と豚が同時に存在している場所らしい。かぼちゃのお化けといえばハロウィーンだが、他の楽曲との関連性はあまり見られない。前作の“僕は白人だったら”では、

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という歌詞はあるが……。黄色人種と黒人のメタファーかと思っていたが、ここで歌う意味はなんなのだ。人間は天使サイド≒ピュアな存在で、豚は悪魔サイド≒強欲で人を蹴落とすことも辞さない存在で、ときどきかぼちゃのお化けが両方をからかいにやってくるという意味か……?と思っていたのですけど、前の曲でも書いたように、「豚」とは地べたを這いつくばる者の象徴であり、小山田さん自身を含む誰もが豚性を持っているのだという。つまり、一人の人間の中に天使と悪魔と人間と豚の性質が混在しているのだ、ということではないだろうか。オレンジトレインに、「乗り込むのが正しいのだ」と自分をうまく言いくるめることができているのが豚で、「本当はどうしたらいいのかわからない」けれど、乗り込まない理由が見つけられないため踏ん切りがつかないのが人間、ということなのだろうか。しかしそれにしてもかぼちゃのおばけが出てくる意味がわっかんねぇなぁ……。すいかとかぼちゃの形が似てるってこと……?ヒント無しみたいなもんやんけ。

“ずっとグルーピー”においては、みんなが海岸へ行き魚が跳ねるのを待っていると歌われた。湖にも魚はいるらしい。しかし色とか泳ぐ早さが、どうして歌われるのかわからない……この曲も全然解読できない……最後なのになんかピシッと終われない……申し訳ない……。

2014/9/29

「ジョン(ベース)がリードギター、僕(ギター)がドラムス、キース(ドラム)がフル・オーケストラ」ピート・タウンゼントが自身のバンド、フーについてこんなことを語ったことがあるらしい。この言葉は、アンディモリにもそっくりそのまま当てはまるように思える。小山田さんのギターそのものは、その楽曲に合った的確な音色を奏でてはいるが、個性的なプレイをするわけではない。そこに寛さんの、時にギターよりもメロディアスなベースと、後藤さんの誰も叩いたことのないような奔放に転がり回るドラムが加わる。ギターと同じ拍を取るだけのベースなんて、誰でもできるわけだからね。後藤さんはそれこそ、キース・ムーンを彷彿とさせるような、一度聴いただけではどう動いているのかがまったくわからないようなドラミングだ。後藤さんはミドルテンポの曲でも素晴らしいプレイを見せてくれているのだが、やはりその本領が発揮されているのはBPMが早めで躍動感のある曲だろう。“フォローミー”や“ベンガルトラとウイスキー”、“トランジットインタイランド”や“SAWASDEECLAP YOUR HANDS”のドラムを、他の人間がアレンジしたバージョンなんて想像できるだろうか?他の人間が叩くことが想像できないドラマーなんて、そうそういない。

前述したように、当初は二人でバンドを組んでいた小山田さんと寛さんが、後藤さんを迎える形でアンディモリは出来あがった。音源を作り始めた頃がどのような状態だったのかはわからないが、この先音楽性がかなり変化することを考えると、後藤さんのドラムは本当に大きなことだったのだと思える。音楽ライターの田中宗一郎さんがThe Stripesの記事で 「ピート・タウンゼントみたく、 頭良すぎて、考えすぎて、 結局、どうしようもない馬鹿になる。こういうスタイルもあります。苦しんで苦しんで馬鹿になる。これはやはり比較的モダンな ロックンロール・スタイルですね」と書いていたのだけど、これもまた、そっくりそのまま小山田さんに当てはまると思う。後藤さんという最高のドラマーを得て、アグレッシヴで攻撃的で疾走感のある曲を作っていく中で、小山田さんの曲作りのスタイルはどんどん変わっていったのだろう。小山田さんがアンディモリ前に作ってきた曲は、ラストアルバムにいくつか収録されることになる。そこには「頭良すぎて、考えすぎ」だった形跡がはっきりと見てとれる。そんな小山田さんの前に、エネルギーに満ち溢れたドラマーが現れたことで、勢いに乗って言葉が迸った……というのが、僕の1stの見方。そんなアルバム制作を経て、自分たちの曲をマスに届けるという経験をしたのちに、『ファンファーレと熱狂』は作られた。ロックバンドとしての勢いを保ちながら、バカにされてしまいそうで歌えなかった政治、社会についてのメッセージを乗せる……それを成立させようとした結果が、このアルバムなのだろう。もちろん、全編がそういったメッセージ性で固められているわけではない。“1984”や“16”、“クレイジークレイマー”などは暗喩を含みながらも小山田さんにとってかなりパーソナルな楽曲だ。しかしその合間を縫うようにして、SFの楽曲を混ぜ込んできている。そしてそれらがSFであるということについて、小山田さんも特に言及していない。そうすることで、アンディモリはいわゆるロキノンの枠になんとか収まることができたし、そのグッドルッキングからアイドル的な人気を博すことになった。巧妙な策士の作戦は成功したと言えよう。

また、田中宗一郎さんが、ザ・フーの楽曲とマイケル・ムーアの作品に触れる形で、以下のようなことを語っている。

「アートとは、主義主張を表明するためのものではないということだ。そして、勿論のこと、ある種のプロパガンダの道具でもない。アートは、ある個人の表現を通じて、世界全体が抱える矛盾や不条理をあぶり出すものだ」

「決して、誰かの立場を擁護して、誰かの立場を攻撃するものではない。正義と悪を区別するものではなく、すべての立場の人間の中に巣食う矛盾をえぐり出すものなのだ」

「素晴らしいアートというものは、単なる心地良さだけでなく、同時に、不安や罪の意識といった不快な感覚をも同時に感じさせるものでさえある」

これは、アンディモリにもぴったりと当てはまるとは思わないだろうか。田中宗一郎さんの言葉の引用ばかりで申し訳ない……しかしどう考えても、あの人の音楽の本質をズバズバと言葉にしてしまう姿ってすごくないですか……?そしてまた田中宗一郎さんいわく「ロックンロールとは、リスナーの悩みや苦しみを解消するものではなく、頭を抱えながらでも躍らせてしまう音楽」。宮崎駿さんは、一部のディズニーアニメに対し「入り口と出口が同じ高さ」だと語ったことがある。宮台真司さんは「芸術とは、映画館から出てきて「あー面白かった。明日も頑張ろう」と思わせるのではなく、その作品に触れる前と後とでは物の見方が全く変わってしまう、考え込ませてしまうような作品のこと」と言う。アンディモリのこれまでの音楽に、何かしら、問題を解決に向かわせる言葉はあっただろうか。あるとしたら、「悩むな、受け入れろ」ではないか。アンディモリの曲を聴いて元気が出るということは、メッセージよりも生命力の塊のような音楽に打たれたということだと僕は思う。社会学者の宮台真司さんが、折に触れて言う言葉がある。

「社会や政治に文句を垂れる『天下国家を憂う』タイプの人間は、自分の実生活に不満がある場合がほとんど。自分の実生活に満足できていれば、社会や政治になんて関心を持たないのが自然」

こと日本においては、というカッコつきの言葉ではあるが、おおまかに言うとこんな感じだ。小山田さん自身も、自分が社会や政治に強い関心を持つことに対して、さらに言えば音楽をやることについても、それが正しいことなのかどうかわからない、という発言をしている。ある意味では、肥大化しすぎてしまった自意識≒アイデンティティーに振り回されるようにして、自身が望むと望まざるとにかかわらず、小山田さんはこうしたプロテストソングを作って発表しなければならなかったのだ。そのような悲しみや苦しみ、葛藤、それらが届かないということが初めから分かっているという諦めとヤケクソ感がこのアルバムにはある。
だからこそ傑作。こんなレベルの傑作に、自分はこの先の人生で出会うことができるのだろうか……僕はそんな不安すら覚えてしまっている。「かわいそうな自分たち」「他の奴ら(リア充)よりも頭が良い、違った考え方ができる自分」をアピールすることしかしないミュージシャンもどき宗教家未満の輩には一生作りえない。そしてこの作品が、ドラマーの後藤大樹さんが参加した最後の作品となった。

このアルバムの完成から約半年後の日比谷野外大音楽堂の公演で、ドラマーの後藤大樹さんの脱退が発表された。その後、後藤さんは別のバンドを作りギターを弾いているということなので、その辺りも脱退理由には絡んでいるのだろう。それにしても、ナンバーガールのアヒトイナザワさんといい後藤さんといい、なぜ天才ドラマーはスティックをギターに持ち変えるのだろうか……。東大を中退するようなものじゃないですか……いや、本人の資質が損なわれるわけではない、という意味でもそうですけど。このライブでは3rdアルバム『革命』に収録されることになる楽曲の“楽園”“スーパーマンになりたい”“ウエポンス・オブ・マス・ディストラクション”などが披露されている。後任のドラマーである岡山健二さんのバージョンとはけっこう違っているので、聴き比べてみると面白いかもしれない。


『ファンファーレと熱狂』

以上が、2ndファンファーレと熱狂のメモです。この先のアルバムは、かなりストレートな曲が増えるので、メモの量はグッと減るかと思います。

お金の限界が見えつつある世界で。または文化の時代について

「金が正義」という経済の時代の終わりが本格的に見えてきたことによって、ビジネスや広告を主軸に働く人でさえも、「文化の時代」を意識し始めた。 文化とは“人の心の集積”である。「人の心」とは、愛、美意識、信念、矜持、

志村正彦を愛した皆様へ

あれから5年が経った。記憶を整理するのに5年という月日はきりがよくてちょうどいい。 僕にとってもそれは、悲しみを、悲しみとして告白できるくらいにしてくれる時間であった。 正直に言うと毎年この季節になると、志村について

185,000字で書く、andymoriのすべて(1/6)

アンディモリの原稿を書かせてもらうことにした。 もともと、アンディモリについてはいつか書きたいと思ってはいたのだ。けれど、彼らの作品に触れたことがある人には分かってもらえると思うが、彼らの楽曲はあまりに難解で複雑だ。