『andymori』|185,000字andymoriレビュー(2/6)

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田中元 twitter.com/genmogura

(初出:2014年10月)

2009年2月発表の、記念すべきファーストアルバム。後のアルバムと比べてみれば一目瞭然だが、モラトリアム的な感性で描かれる曲が多い。文学的というか、暗喩を用いすぎているきらいはあるが、それでも売れた。どの曲も感情のトーンと演奏が同じベクトルを向いているし、ところどころ人の心を打つ言葉をちりばめてはいるものの、こんなにも理解されないことを前提に、しかし作詞者には明確な意図をもって書かれた歌詞というのは、あまり前例がないのではないだろうか……。売れたのはメンバーのグッドルッキングが原因かもしれないし、単にアグレッシヴかつシンプルなバンドサウンドが若者に受けたのかもしれないし、小山田さんの声の良さが原因かもしれない。小山田さんが「 アコギをかき鳴らすシンガーソングライター」としてソロでデビューしていたとしても、相当数のファンがつくことは想像に難くない。ミドルテンポの曲でも的確なアレンジが施されているが、何はなくともアグレッシヴな演奏がとにかく白眉。

本人たちでさえ二度と作れないような、真っ直ぐで荒々しい、沸騰してしまいそうな楽曲が詰まっている。やはりEPのみに収録された二曲とは、クオリティが段違いと言っていい。あの二曲を録ってから本作の制作に入るまでに、何かがあったとしか思えない。(そういう「何かがあった瞬間」に立ち会うことほど、音楽ファンとして幸せな瞬間もない)エモーショナル(陳腐な言い方だが)かつ文学的という、一見矛盾してしまいそうな二つの要素が、ほぼ完ぺきな形で実現されているという、特異な作品。金字塔と言いたいところだが、他のだれもこんなものを作れないだろうし、そもそも作ろうと思わないだろう。ドラマーの交代というわかりやすい変化もあるものの、ソングライティング の面でも、本作と、次作の『ファンファーレと熱狂』は双子のような作品となっている。このあたりについても、先で触れていきたいと思う。

『andymori』

FOLLOW ME
アルバム発売の半年前にリリースされたEPでは、三曲目に配置されていた楽曲。しかも二曲目は“everything is my guitar”なので、アルバムとは順番が逆で収録されていたことになる。EPを手に入れる頃にはアルバムを100回は聴いていたので、もはやどう考えても“FOLLOW ME”は僕にとって再生して一発目に流れてこないと違和感すらある。もともとはどちらを一曲目にするつもりでいたのかは分からないが、レコード化に際してこちらを冒頭に持ってきたのは英断だろう。曲順については、完ぺきだとしか言いようがない。テンポがバラバラだし、間奏に入ると裏声も使うし、なんと歌いにくい曲だろうと思う。「みんなに歌ってほしいです」と語るバンドマン達の多い中、このアンチカラオケ的な曲作り。しかし、こんなにも爆発するような初期衝動がロックンロールする前奏部分だけで、アルバム一枚分では収まらないほどの価値がある。何度聴いても、否応なしにアガってしまう。この曲の歌詞が、どれほどデタラメなものになっているかについては、あらためて触れるまでもないと思う。一貫した主張などはとくになく、センテンスごとに分断された内容が歌われているという印象だ。そしてそれはおそらく意識的に行われていることなのだと思う。無理やりまとめるのであれば、Aメロで歌われているところは、インディアやケララという言葉が示す通り、インド的な文化に感銘を受けたという小山田さんの経験がそのまま歌われているはずである。インドは西洋とは全く違った価値観や文化で成り立っている世界である。

2014/8/31

百貫デブにはサプリメントを、という言葉だけでは、何を言わんとしているのかは掴めない。食欲の赴くままに食べ物をむさぼり続ける人間が、栄養の偏りをサプリメントで補う……つまり暴食を止めるつもりがないという状態なのかもしれない。もしくは、サプリメントを与える側の人間が、百貫デブを自分のもくろみ通りに動かそうとしている様を描こうとしているのかもしれない。百貫デブは、思考を単純化されてしまった愚民のなれの果てという捉え方もできると言うことだ。

有色人種のくだりはもう少しストレートな受け取り方をしてもいいと思う。現在でも、止むことを知らない第三世界の紛争には先進国の兵器製造会社をはじめ、密輸業者などが間接的に紛争に加担しているのだという問題だ。アメリカをはじめとする先進国の軍事産業が、イスラム諸国やアフリカ大陸における紛争の当事者たちに武器・弾薬を売る。その武器や弾薬が「消費」されることによって、先進国の産業が大きな利益を上げる。そのような経済的な恩恵があるため、戦争がこう着状態に陥り長引くほど、軍事産業は潤っていくのである。「死の商人」などとも呼ばれる、闇の深い問題である。(ちなみに朝鮮戦争当時、日本の軍事産業も儲かった。朝鮮特需と呼ばれる。そこで得た資本が、日本の経済成長を促したと言われる。我々もこの問題に無縁ではない)

また、おそらく文脈とは違った話にはなるが、2011年にノルウェーで起きた銃乱射事件も思い起こさせる。この事件の犯人は、イスラム教やマルクス主義に対し否定的な極右であり、ノルウェー政府の移民政策に対して抗議する意味合いもあったとされている。また、多文化主義に否定的な民族として、日本に強いシンパシーを感じていたとのこと。結果はまさに、このラインを彷彿とさせる事態である。偶然ではあるが、かなり興味深いことには違いない。

それを、小山田さんは、たった二行の言葉、曲の中で5秒ほどの歌に乗せてしまう。この感覚を持ち合わせているミュージシャンは、視野を世界に向けてみても、数えるほどしか存在していないように思う。何度聴いてもこんな風刺の利いた歌詞を書けるソングライターが、現代、他にいるだろうか。僕は、思い当たらない。二度目のコーラスが終わり、アグレッシヴな演奏が一度止み、歌声が強調されるような間奏に入る。

歌詞に出てくる太陽が、前述したこととまったく同じ意味で歌われているかどうかは、微妙なところだと思う。先ほどと同じ意味合いであれば、オレンジの太陽とはつまり、日本という国が没落していくことのメタファーだと言えるだろう。文化的な面はさておき、経済的、工業的には日本という国はかつてのように繁栄を取り戻すことはない。めまぐるしい経済成長を遂げ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと呼ばれていた昔に、誰が中国にGDPを抜かれる日が来るなどと考えただろうか。もちろんその中国のバブルもまた崩壊するのではないかという予見もある。しかしかつて途上国と呼ばれた国々がどんどん追い上げてきている。日本の優位性が失われていくのは誰の目にも明らかだ。2000年代後半にいわゆる団塊の世代がいっせいに定年を迎え、退職していったという。2007年に起きたリーマン・ショックという世界的な金融危機が起きる。「逃げていく」という言葉を選んでいることから察するに、経済的に豊かな世代、バブルを謳歌した世代が、問題を山積みにしたまま社会から退いていこうとしている無責任な様子を批判するニュアンスが込められているはず。しかしその次のラインでは「もういいよ かくれんぼ もう終わりの時間だよ」と歌いあげる。古い価値観によって抑圧されていた若い世代(つまり僕たちだ)に向かって、自分らしく生きてよいのだと告げるような言葉だ。親たちの世代は「安定した仕事につきなさい」などを言うが、それは現代の実情を何も分かっていない人間の吐く言葉だ。マクドナルドやベネッセのような巨大企業が不祥事を起こすなんて誰が思っただろう。ソニーの経営がヤバくなるなんて、30年前に誰が考えた?分裂症的とも言えるが、「オレンジの太陽が地平に逃げてゆく」と、やるせなさと憤りを同時に感じさせる言葉の後に、しかしその太陽が去ることは良いことでもあるのだということを我々に差し出して見せる。こんなに見事な構成の楽曲が、他にあるだろうか。小山田さんはインタビューで「俺たちの音楽で人々の心を解放したい」と語っていた。無理やりまとめるならば、ある価値観が別の価値観を抑圧しているという事実を歌った曲なのではないだろうか。

2014/9/1
everything is my guitar
この曲を大きく特徴づけている点として、小山田さんが声を出していない瞬間が無い。ためしに曲に合わせて歌ってみると、唾を飲み込むますらないことが分かる。歌われている内容は主人公が一人で街を歩いて目に着いたものにただただ想いを馳せるものなのだが、血管がブチ切れてしまいそうなほどにテンションの高いボーカリゼーションである。よく言えば見たものをありのまま歌っており、悪く言えば取り上げる物事が散漫すぎである。

アンディモリの楽曲では東西南北の方角に言及することが多いのだが、いくつかピックアップしてみても、あまり共通性を見いだすことができない。楽曲に関してもかなり抽象的。「憂鬱を運ぶバス」とは果たしてなんなのか。バスに「乗れと脅される」というシチュエーションの奇怪さも、正直理解しがたいものがある。これは詩的な表現ではなく、楽曲の世界に置いてはリアルな言葉であって、つまり本当に「憂鬱を運ぶバス」に「乗れと脅され」てしまうような世界……つまりSF的なものだと考えようともしたのだが、あんまりしっくりこない。

声を張り上げるようにして。右翼の声も議員の声、彼の中では同列なのだということだろうか……。どちらも真面目に受け取るに値しない、信頼性の無い言葉だということ。これ若年層にはかなり皮膚感覚として理解できるものではないだろうか。若者が選挙に行かない、政治参加をしない理由として、「どこに投票しても一緒」「自分が行動しても何も変わらない」という想いがあるはず。

誰も聴きたくないような政治なメッセージ表明なんかよりも、自分のギターを聴いてほしいという願いが込められているのだろうか。この「音楽的メッセージ、歌詞<音楽」という考え方は、アンディモリの、小山田さんの根底に強くあるもののように思える。どうにもやはり、日本のロックバンドの多くは、音楽を作るということよりもメッセージを発信するという方向に向かいがちな気がしてしまうのだ。また、小山田さんが描き続けるモチーフとして見るならば、<ギターを聴いてくれよ>と<誰にも言えない 言うことはないよ>の二つのラインは繋げて考えることができるだろう。

小山田さんはある時期まで、自分自身が言葉を発するということに戸惑いを感じていたようだ。

特に、音楽に思想を乗せるということに対する責任や、いくつもある考えの中から、その一つを「自分が思っている唯一の本当のこと」として声にしなければならないという重圧などがそうさせているのではないかと思う。現実を生きなければならない、という、責任感に似た感情?スクエアプッシャーというミュージシャンがインタビューで語った言葉を引用したい。「あなたの音楽から感じることのできる恐怖は、何が起因するものだと、あなた自身は考えているのか?」という問いに対して、「それは君の脳が相当異常をきたしている以外には考えられないね。(中略)正気な人間にとって、音楽は気を紛らわせるものでしかない。恐怖の体験を呼び起こすほど真剣に音楽と接しているってことは、助けが必要だという兆候かもしれないよ」もちろんこのスクエアプッシャーの発言は、皮肉である。彼の音楽に触れたことがある人ならわかると思うが、彼はどう考えても、音楽を作りながらでないと生きていけないほど、音楽にのめり込んでいる。別のインタビューでは「音楽を作るのは、俺が人を殺したり頭がおかしくならずに済む唯一の手段だから」というようなことを語ったこともあるほどだ。転じて考えるなら、現実を謳歌しながら生きている人間が、歌を作ることがあるだろうか。ただの暇つぶしで創作をしている人間が、こんなたいそうな言葉を発したいと思うものだろうか。自分自身が「なんのこだわりもない」というポーズをとりたいという想いがあるのではないだろうか。「本気でバンドなんかやってるぜあいつ。だせー」という冷やかしに対して、心が何も動かないミュージシャンなんているのだろうか。音楽で自意識の発露させるということの、みっともなさ。田中宗一郎さんが「家族や友人、恋人との関わりの中で発散させるものなんじゃないの?遊びに行ったり飲みに行ったりして」と話していたことがある。音楽でしょーもない自意識の発露をするバンドについての発言だ。これは、少し胸に突き刺さる言葉ではないだろうか。僕は耳に痛かった。だがそれは、この言葉が的を射ているからである。いや、多分、僕が20周年アニバーサリーを迎える程度には童貞をこじらせていたことや、友だちも片手で数える程度しかいなかったことや、趣味の話ができる人間など皆無だったことが関係していると思う。ようするに自意識はパンパンに膨らみ、それを発露させる場所などなかった。そのため音楽や映画にのめり込んでいった。小山田さんがそうだとは言わないし、これを読んでいる人の多くもそうではないんじゃないかと思う。(いや、けど、人には言えない記憶や気持ちを抱え込んでしまって、自分の気持ちを代弁してくれるミュージシャンに心酔するというのはよくある話だよな)

2014/9/2
モンゴロイドブルース
また解読が困難で厄介な曲だ。けれどなんど聴いてもめちゃくちゃ楽しい。スローテンポでどこかへろへろな演奏と、かなりふざけたような歌い方が特徴的。冒頭の朗読に強調されているように、DNAについての曲であることがわかるだけ良いのだが。あらためて解説するまでもないことだが、「アンチドリアン」は「アンチコリアン」で、「アンチシャイニーズ」は「アンチチャイニーズ」のことで間違いないだろう。冒頭の合図「名誉白人」と繋げて考えれば明らかだが、この曲は日本人の白人コンプレックスや、近隣諸国への差別感情についての歌だ。いわば、いまだに消えない「脱亜入欧」的精神を揶揄していると言える。そのあたり、現在の二十代後半以降の世代と、それ以下の世代の間ではかなり違いがあると思う。

バニラシェイクというのうのは、マクドナルドに代表されるファストフード文化のイメージとして使われていると思われる。要するに、アメリカ的な食文化をどや顔で愛好している、ということだ。

日本人と中国人や韓国人は、遺伝子的には大きな差はないという。日本人もいわゆる「モンゴロイド」というくくりの中に入るのだ。ただ、ここで繰り返し述べる理由がわからない……。侵略戦争や移民などがあり、民族は何度も混血を繰り返していくのだと言う意味だろうか……。

大陸直系ということは、おそらく中国大陸のこと。中国人的な特徴がそのままあらわれている顔だ、ということだろうか。それにしても過激な歌である。この島国の王がかき混ぜているのが、後に出てくる「アイスコーヒー」なのか、それとも民族を混血するということなのか不明。なにか、天皇のこれまでの仕事の中に、こういった出来事があったのだろうか。天皇に言及してしまう曲なんて、僕はローザ・ルクセンブルグの“かかしの王様ボン”くらいしか知らない……。コーラスで繰り返される「恋はあせらず」は、ガールズポップグループのスプリームスの楽曲のこと。ダイアナ・ロスが在籍し、フィル・スペクターがプロデュースしたことで有名なグループだ。この楽曲のコーラスを訳すと「ママは言ったの 恋はあせらず」である。しかし「パパ」は登場していない。モンゴロイドブルースに、このコーラスを引用する必然性というのがわからない……。白人である(そして女性蔑視的だった)フィル・スペクターが、黒人ガールズポップグループをプロデュースしているという構図に、人種問題としての繋がりを見いだすことは出来なくはないが……。しかしこんなダイレクトに引用すると言うことはなにがしかの理由があるとは思うのだが……誰か教えてください。

同じく日本人の民族的アイデンティティーについて歌う“僕が白人だったら”と双子のようなものだ。どちらも、わざと感情を込めずに歌っているような節がある、というところも似ている。二つの楽曲を繋げて考えると、どちらも、劣等感と表裏一体の優越感を描かれていることがわかる。自分よりも下の人間を見下してせせら笑うというのは、劣等感をベースにして向上心を持った人間にありがちな話だ。ちなみにそういう人は、同じ土俵に立っていない人のことをコケにしたりすることがやたら多かったりすると思う。ネット社会の弊害とも言える。

また、昨年ごろから議論が激化しているヘイトスピーチ問題とも直結しているという点も見逃せない。ここ日本では、いわゆる在日コリアンに対する批判が強い。そしてその批判のうちのほとんどは、論理性のかけらもなく、ただの八つ当たりでしかない。宮台真司さんも指摘するところだが、日本で行われるデモや政治運動のほとんどが、ただのうさ晴らしでしかない場合が多いようだ。フジテレビに対する抗議運動で、デモの主催者が「デモ活動を通して彼女ができました」と言って、活動から引退してしまうという事態が象徴的に表されているだろう。まるでコントのようだが、鬱憤を抱えていた人間が、性愛を知って他のことなどどうでもよくなってしまうという、あまりにも分かりやすいケースだ。なにかを過剰に攻撃しようとしている人間のモチベーションなんて、そんなもんである場合が多いんですよ。この問題を、2008年の時点でとりあげている小山田さんの、世界を見る目の鋭さたるや。また、2014年の時点でも、こんなに風刺的な形で日本人のアイデンティティーについて、中国や韓国との関係について取り上げた曲というのも見当たらない。天才すぎるだろ。

2014/9/4
青い空
ゆったりとしたギターのアルペジオから始まる曲。ドラムの音がどこかぼやけており、アタック感がなくなっている。これまでの三曲とは少し毛色が違い、詩的な側面が強い。この楽曲は、自分で選んだ道のはずなのに、弱気になったり迷ったりして、自信を持てなくなっている人に向けて歌われているのではないだろうか。とても若い感性というか、思春期的なテーマだが、そこが素晴らしい。なにせデビューアルバムなのだから。

小山田さんは、青い空を見ていたことは覚えている。「僕ら」つまり小山田さんのまわりの人たちは、青い空を忘れてしまうどころか、青い空を見ていたこと自体を忘れてしまうということだろう。これは多分、子どもの頃に純粋な気持ちで見ていた夢のようなものじゃないだろうか。地図に迷い込んだ時ぐらいは、自分が何をしたいのか、何をしている時に楽しくて幸せでやりがいを感じることができるか、思いだしてみてもいいのではないか……(なんか僕の自分語りみたいになってるな)と、まぁ、やはりこれらのラインもどこか就職活動と、その後、普通の社会人になることを描いているような気がしてしまう。小山田さんが「地図」という時、それはあまり肯定的な意味で使われていないように思う。

このアルバム全体のモラトリアム的な感覚から解釈するなら、親をはじめとする周囲の意向は「安定した選択をしろ」というものかもしれないが、自分自身が純粋にしたいことをしてみてもいいのでは? ということになるだろうか。歌詞中に出てくるジャイサルメールとは、インドの砂漠の中にあるオアシスの町。どうにも、このアルバムではインドのことがたくさん歌われている。小山田さん自身が十代の頃にインド旅行をしたことが、自分の考え方を大きく変えたと語ってはいたものの……。欧米的な価値観、そしてそれに強く影響を受けた日本の価値観や社会の成り立ちというものを疑うきっかけになった、ということ?しかし小山田さんが、「欧米ダメ、日本ダメ、インドいい」というような短絡的な考え方をするはずがないわけで……。なぜドロップキャンディーの雨が降るのかはわからないです……。

心が揺れる、というふうに取るのが一番自然なのだけど、目を閉じる、耳をふさぐという具体的な動作の後に、ただ一言「ゆれる」という言葉にするあたりが、小山田さんの手法なのだろうと思う。就活やモラトリアムという流れから考えるなら、「ゆれる」とは小山田さん自身が、どこへも歩み出すことができていないということを意味しているような気がする。

このラインを膨らませて、具体的な描写を足していけば、一曲分くらいの死になってしまいそうだけど(笑)。しかし、こうして抽象的な文にしているからこそ、多くの人がこのラインに自分の体験を重ね合わせる。合わせますよね?吐き気のするあの顔とは、親かもしれないし、上司かもしれないし、犯罪者かもしれないし、教師かもしれない。大事な人も同じく、どうとでも好きに取れる言葉だ。ていうか「いろいろと嫌になって」なんて言葉を使うソングライターがいるだろうか(笑)。やはりこの時期の小山田さんは、具体的なものいいや、自分の想いを語ることを避けている。

そして、またも「バス」が登場する。また「南の空」である。南という言葉は、このあとに収録されているLife is partyにおいては比較的良い意味で使われているように思う。また、アルバムをまたいで、この先一番使われる方角が、南だと思う。坂道を行くバスのというのは、困難な険しい道を進もうとしている人たちが、それでもどこか幸福そうである様を表しているのだろうか。

2014/9/5
ハッピーエンド
前作から引き続き、モラトリアム色の強い楽曲。やはりこの曲の主人公も、決断の留保期間中というか、まだ何か具体的な行動をとる決心がついていないように思える。別れの歌という解釈で合っているとは思うのだが、わからない部分が多すぎる。

まず普通のバンドだったら「この日々」がどんな日々なのかを具体的に歌い上げるはず。おそらく前の曲に続き、就活やバンドをするということがモチーフになっているはず。それこそ彼らは、早稲田大学を卒業して、バンドを続けるという道を選んだのだから、周囲から理解を得られないという場面もあっただろう。

歌われるシチュエーションを下敷きにしているのではないかと思う。この二つのラインを比較すると、後者がどうにも楽観的というか肯定的というか、ファンタジーのようにすら思えないだろうか?しかし小沢さんは、キャリアの中盤までは、あえて多幸感に溢れる曲ばかりを作っていた節がある。悲しみや苦しみについての歌でも、きらびやかなポップスでデコレーションして世に送り出していたようなところが。その辺りは小沢健二論になってしまうので、手っ取り早く小沢さんについて知りたい人は村上春樹のようにラフでタフなソロデビューアルバム『犬は吠えるがキャラバンは進む』、王子様化した2nd『LIFE』、シングルのB面集『刹那』を聴いてみることをお勧めする。アンディモリファンの人は、ハッとするような部分がいくつもあると思う。

相手が相手のままで、自分が自分のままであろうとするならば、別れは否応なく訪れるものである。1stアルバムの5曲目で、別れの本質を描いてみせたことが異常。小山田さんの、人との別れや、悲しい出来事をそのまま受け止めようとするさまには、どこか痛々しいものすら感じる。すがすがしいとも、すでに小山田さんがさまざまなことを諦めているとも取れるが……。

不細工という言葉を選ぶあたりが、やはりアンディモリと他のバンドとの違い。このあたり、アンディモリの所信表明というか、どこにももらいてのない≒行き場所のない人間に向けた歌を作っているという表現でもあると思う。ドラムが刻む「だだだっだだだっどんだんだん」という音がアクセントになり、かなり強調されるようなラインだ。

このアルバムでは「友だち」という言葉が何度か登場する。ストレートに解釈していいものかどうかわからないが、学生時代を謳歌していた友人が、自ら望んで進んだ道の先で「笑わなくなった」ということだろうか。ここで、友達を笑えなくさせた原因を、糾弾したりはしないというのが、小山田さんのスタンスだ。そして僕は、そういうところが好きなのだと思う。00年代、攻撃的な表現が本当に増えたと思う。

僕はそういう感性がどうにも好きになれない……。具体的になにがどう悪いのか、ということを言えやしないのに、感覚的にただ嫌いなものを攻撃するというのが本当に嫌なのだ。本当に嫌いならば、相手に立ち向かっていけばいいじゃないか。という言葉に、そういった人たちはなんて答えるだろう。

コーラもまた、アンディモリの歌詞に頻繁に使われる。ただ、コーラが「空」になってしまっている状態はここでしか使われていないように思う。けっこう無理やりな解釈をするなら、すでに誰かが飲んでポイ捨てした空き缶というモチーフは、どこか世代的な感覚が現れているような気がする。『ファンファーレと熱狂』では何度か出てくる、自分たちの上の世代が、日本のオイシイ時期を好き放題味わい尽くしたのではないか、という見方である。いわばバブル期に豪遊していたような人間たちである。おそらく小山田さんの世代も、就活はかなり苦戦を強いられていた時代ではないだろうか。自分たちの上の世代は楽々と内定を決めていたのにもかかわらず、自分たちは苦労をして、それでも企業には足蹴にされる……というような感覚。そういえばコーラは炭酸で、泡が無数に浮き上がっては弾ける……というところから、バブルを連想できなくはない?

2014/9/6
都会を走る猫
クラシカルなギターの美しい音色が印象的な曲である。小山田さんは幼い頃、ピアノを習っていたのだそうで。しかし途中からパンキッシュな曲調に変化する。歌の内容はかなり抽象的というか、かなり混沌としたものになっている。

歌詞、意味が、わからない!!誰かに名前を付けてもらう必要がない≒人から認めてもらう必要はない、というニュアンスだろうか……。映画や小説、神話などにおいて、名前がどれだけ重要なものであるかは、おそらく誰もが知っているだろう。『千と千尋の神隠し』において、主人公の名前がどれだけ重要であるかを思い出してもらえばいい。今後も、物語に触れる際に名前がどのような扱われ方をしているか注意してみてみると、それなりに面白い発見があると思う。つまり都会を走る猫は、存在を認識される必要も、人から気にかけられる必要もないということだろうか……。そんな大層なことではなくって、たんに、猫みたいにひょうひょうと気まぐれに生きたいってことでしょうか……。

「とにかくそんなものに」って、ここでもまた具体的な話を避けている。日常生活で「とにかく」という言葉を使う場面を考えてみてほしいのだが、上手く説明ができない時、相手との話に折り合いがつかない時などではないだろうか。音楽は時に、聴き手とのコミュニケーションで成り立つことがある。しかし、目の前にいる人間とリアルタイムで向き合うということとは違い、創作家にはどんなものを差し出すか考える時間がある。相手が自分の作品(≒メッセージ)をどのように受け取るか想像を巡らせて、自分の意図通りに伝わるように趣向を凝らせる時間がある。にもかかわらず「とにかく」という言葉を用いる辺り、小山田さんは選んで抽象的な表現を行っているということだ。あるいは、荒削りなガレージロックバンドとして見られようとしている。今やロックレジェンドの一つとして数えられるザ・ポリスや、00年代後半のニューレイヴムーブメントに便乗したハドーケン! など、すでにミュージシャンとしてのキャリアがある連中が、流行に乗るためにわざと素人のフリをするということはけっこうあるのだ。そこまであざといとは言わないけれど、小山田さんはソングライティングにかけては初めから天才であり、こういう拙い言葉選びなどは意識的に行われている、ということだ。

自分の内面や、人間関係についてしか歌わない邦楽バンドが多い中、こういったソングライティングのスタイルをとる小山田さんはやはり特殊だと言える。風景描写が巧みなソングライターとして、僕は山崎まさよしを思い浮かべる。しかしあちらは、風景描写と自身の心理が直結していることがわかる。つまりソングライティングが「上手い」と感じさせられるものだ。たとえば「ある朝の写真」など。

これは自身の経験を歌うというより、暗喩で満ちているので、風景描写として捉えていいのかどうかはわからないが……。もちろん、「留守電にし忘れていた」は「昔の恋人からの連絡を未だに待っている」ということであり、「洗濯物が乾かない」は「自分は未だに失恋から立ち直っていない」ということであり、「もう新しい家が建っている」は時間の経過の表現と共に「昔の恋人にはもう新しい恋人がいるのではないか」ということであり、「どこかの駅の始発が動きだす」のも、「昔の恋人はもう自分のことなど考えなくなっていてすでに歩み出している」ということである。それと比べると、小山田さんの風景描写は極めて写実的であり、自分の文脈の中に取り込んで解釈することを避けているような印象。それはつまり、自分に都合よく受け取ってしまうと言うことであり、解釈の幅を狭めると言うこと。あらゆることに対する解釈のフレームを作ってしまうということは、思考停止にも繋がるということだ。

小山田さんの見る世界は、まだあらゆることを分化していないところ、メッセージを丹念にすくい取ろうとしているところがあり、それはとても瑞々しい感性だと思う。

2014/9/7
僕が白人だったら
前の曲のメランコリックな雰囲気から一転し、イントロから激しいギター、高速のドラムが叩きだされる曲だ。モンゴロイドブルースもそうだったが、こちらもタイトルからして、もう最高。先にも書いたが、この二曲は双子のようなもので、あちらが日本人のアジア蔑視について、こちらが欧米(特にアメリカ)コンプレックスについての歌である。

この言葉が棒読みで呟かれることで、カタコトに発音されていてもさほど違和感がない。戦後、日本に駐留しているアメリカ兵に子どもたちが群がり「ギブミーチョコレート」と覚えたての英語でたかっていたのは有名な話だ。ここでのアイワナビーホワイトは、それに似た滑稽さが出ている。たくさんの友だちのラインは、ディズニー映画のキャラクターたちだろうか?馬鹿にしすぎていると思う(笑)。

人種のるつぼとは言うけれど、結局は格差が存在している。誰に対しても機会が開かれていると言えば聞こえはいいが、実際は多くの「走らされているチキン」がいる上に成り立っているということだろう。チョコレートケーキについては黒人で、パンプキンパイ=かぼちゃ=黄色い=黄色人種のメタファーかと思ったが、それでは中東系の人などが外れてしまうような気がする。うーん。前段と繋がっていると思われるので、大きな庭にさまざまな人種を放し飼いにしているという痛烈な風刺。人種問題? と思ったけど深読みをしようとし過ぎている気もしなくはない……。

アメリカが犯してきた様々な罪。彼らはすぐに忘れ去ってしまう。神の名のもとに行われたことだ、などと自分たちに言い聞かせている。たとえば、アカデミー賞を受賞した「それでも夜はあける」これは黒人奴隷制度に触れた映画としては、史上三作目なのだという。これだけ長い映画の歴史がありながら、まだたったの三作しか作られていないのだ。たとえば、原爆投下に触れたアメリカの映画がいくつあるだろう。ゼロだ。未だに原爆投下は正しい出来事であったと主張し続けている。宗教を盲目的に信仰する人間たちの危うさについてのラインでもある。そして次のアルバムではこのテーマはさらに拡大し、ロックバンドと宗教を重ね合わせているところすらある。

2014/9/8
ベンガルトラとウィスキー
畳みかけるように激しいドラミングで幕を開ける曲。トラとクジャクという動物を使った、寓話的な曲だ。

ライフイズパーティとかテイクイットイージーという、悪意はないのだろうけれど誰の心にも響かない言葉。あたりさわりのない定型句。園子温監督がメガホンをとった『ヒミズ』を思い出して欲しい。冒頭で、教師が言う「君たちは世界に一つだけの花なんだ! 夢をいだけ! がんばれ!」にも似ている。そして主人公たちがヘヴィなストラグルをくぐり抜けた後に、「がんばれ」という言葉が使われる。誰が言うか、どんな場面で言うかによって、その言葉の持つ意味は全く違ったものになると言うことだ。(ヒミズは漫画版の方が好きだけど)同じ声で繰り返してくれるんだろうという言葉は、相手が「とりあえず」その言葉を使っているだけだと言うことが、トラやクジャクにはわかっているということだろう。小山田壮平の「無責任で楽観的な言葉への嫌悪」への表明ととってよい。前向き「なだけ」の言葉たち。

この曲も、どこか「ホーム」から切り離されてしまったような感覚が強いように思える。そもそも、ベンガルトラもインドクジャクも、インドの地名が名前に入っているわけで、そんな動物たちが、おそらく日本の動物園の檻の中に閉じ込められてしまっているのだ。そしてトラは、わかったような顔で、しかしきれいな空を見たいと願う、クジャクは、困ったような顔で、きみの声を聞きたいと願う。ちなみに、空を見たいと願ったり、実際に見上げたりするけど、ビル=大人たちが作り上げたモノのせいでちゃんと見えないというのは、尾崎豊がよく使っていたように思う。尾崎豊と言えば、小山田さんと顔が似ているとずっと言っているのに、誰にも賛同してもらえない……。隅々まで、日本とインドとアメリカについてのアルバムであるように思える。

誰にも見つけられない星になれたら
パブで演奏している姿が目に浮かぶような、肩の力の抜けた曲。どこかザ・ヴューのよう。マイノリティになじめない「僕」と「君」の歌だ。多くの思い出は、夜に生まれる。

歌いだしが「ところで」っていう歌がどれだけおかしなものかは、あらためて書く必要はないと思うが……。この曲の解釈を書くにあたり、けっこう考えてみたのだけれど、どうにも他の楽曲との強い結びつきというものが見当たらない……。スイートラブシャワーで披露された新曲の題が“それでも夜は星を連れて”であり、シチュエーションもどこかこの曲と近いと思う。なにより、別れを暗示した曲でもあり、双子のような……新しい解釈で書かれた曲のように思えた。このラインの解釈を考えてみたのだけど……。小山田さん自身、アウトサイダーに共感することが多そうだなということは、次作の“クレイジークレイマー”でも見受けられることだ。そしてそれは、リスナーへの直接的な語りかけでもある。どうにも、「ぶさいくなこねこ」と言い、「偏屈なところ」と言い、ネガティヴなニュアンスの強い言葉をすすんで選んでいる節がある。

次の一節の解釈が、全然、成り立たないんですよ……!水パイプってマリファナですかね。なぜかわいいって言葉とくっ付いているのかわかりません。心のこもっていないからっぽの言葉を歌ってしまうから、窓の外にダイブしたくなってしまうということ?

次の歌詞。またここでもコーラの登場である。しかも今度は、瓶コーラ。取り残されて、という言葉がキーワードだ。僕と君も取り残されている、というあたり、やどこか小山田さんと君はアウトサイダー(コーラとサイダーで引っかけてるんじゃないよ。)おそらくはだが、これはやはり、普通の社会生活からは少し距離のある若者の歌だろう。さらに言うなら、就活から距離を取った若者たちの。そんな自分たちに「何を気取っていたんだろう」という冷たい問いかけをしてみせる様は、ぐらつく足元に不安を覚えているように見える。達観しているようにも取れるが、それよりはむしろ、どこへも行けない、何にもなれていない自分たちの状況についてぼんやりと考えを巡らせているようだ。生活のために今の生活を止めなければならないというような切迫した状態ではない。

夜が来ることを「僕」はあらかじめ知っていたのだろう。連れて行かれたというからには、おそらく本人たちの望みとは別のなにかに、強制されるようにして引き離されてしまったのだと思う。ぜんっぜん解釈できません……。彗星に連れて行かれて、スイートスポットに辿り着いたの……?全体として解釈が全然成り立ちませんでした……お許しいただきたい。

2014/9/9
サンセットクルージング
定番的なロックのリフをつま弾く、どこか気だるげな演奏。ロックバンドへの痛烈な冷や水。

日本のバンドって、大卒とか多くないですか?お利口でこぎれいな形に収まっている、面白みに欠ける日本のロックバンドへの冷や水であろう。こういう、アンディモリの、いわゆる「ロックバンド然としたバンド」への批判を聴いて、ロックバンドで飯を食っている人たちはどう感じるのだろうか……?アンディモリのことを好きなロックバンドって、多いよね……?別に名前はあげないけど……。

現代は、心の傷を商売にしているという側面がある。精神病という意味でもそうだし、多くの娯楽作品が心の傷を舐め上げるようなものばかりだという意味でも。小沢健二さんの母親で心理学者の小沢牧子さんが、奇しくも『「心の専門家」はいらない』『心を商品化する社会 「心のケア」の危うさを問う』という本を出版している。心の傷は、いい売り物になるということだ。小山田さんも、自分自身が歌っていることに対して無自覚であるというわけではないだろう。アンディモリが何かを批判する時には、大体自分のことも省みながら歌っている自分の理想を歌ったり、何かをするような歌を作ったら、「じゃあ、そんなきれいごと言ってるお前はどうなんだ?」という批判が起こりかねない。

それは、反原発派に対して「じゃあ電気使うなよ」と言って批判するようなもの。100%行動に移すことができていない人間に対する批判をする側の人間というのは、行動をする前に諦めてしまう人間よりもタチが悪いものだ。まぁ、そういうような完璧主義者というか、白か黒かをはっきりさせないと気が済まない人間って言うのも、一つの病理であるような気がするのだが……。

次のラインは、暗に宗教、スピリチュアルな集団への批判であるように取れる。平日の昼間の喫茶店やレストランでは、宗教やマルチの勧誘が行われており、その様子を歌っているのではないだろうか。次作では、音楽のリスナーと、宗教の信仰者を並列で語る部分がいくつかあるので、小山田さんはおそらく、「何かを純粋に≒盲目的に愛すること、信じること」に対して、懐疑的な考えを持っているのだろう。

次。どこか虚無的なライン。死にたくなる、なんて言葉をストレートに使い、その後その感情について歌われないのがかえっておそろしい。

タイトルの「サンセットクルージング」は、このアンディモリの文脈においては、日本の経済的繁栄や、凝り固まった古い価値観が失われていくさまを表現している。少し転じて考えてみると、何かが終わっていくさま、熱が失われていくさまということ。ロックバンドや宗教家の活動を描く歌にそんな題を付けてみせる。偽悪的な言い方をするならば、もはや彼らに情熱などなく、訴えることに正当性などなく、もはや疑ってかかるべき対象だというメッセージがあるのではないだろうか。かつてロックンロールバンドが、人々に夢を与えた時代があった。それが今では、宗教についても、創始者が偉大な人物であっても、その思想を引き継いだ人たちがどんどん教えを劣化させていくというのはよくあること。歴史の教科書をめくるだけでも、キリスト教が大暴れしていることからもよくわかる。(わかりやすい例えなのでキリスト教を挙げましたが、僕は無宗教です)ある意味では、新陳代謝を妨げる存在、淘汰されていくべき存在についての歌なのかもしれない。そう考えれば、後に“革命”という曲が作られるのも必然的に思える。田中宗一郎さんが、アメリカのローファイポップバンドのぺイヴメントについて「ペイヴメントとはショービジネス化したすべてのポップ・ミュージックにまつわる噓臭さや仰々しさや無意味なクリシェに対する嘲笑だった。「なんだよ、ステージの上で感極まったりして、ナルシスティックもいいとこじゃねーか。しかも毎晩、同じことやってるなんて、そりゃ演技だろ。だとしたら、詐欺みたいなもんじゃねーか」という裸の王様を笑う、鋭い批評そのものだった。(中略)彼ら特有のニヒリスティックな態度は音楽を深く愛するがゆえだった。だからこそ、この傑作1stアルバムは、ポップ・ミュージックにリアリズムを取り戻したはずのグランジが、ニルヴァーナのブレイク以降、あれよあれよという間にショービズの一部になっていった92年というタイミングでドロップされなければならなかったのだ」と書いている。この楽曲のことを書いたんじゃないのか?という気がしてしまうのは僕だけだろうか。

2014/9/10
Life Is Party
アルバムのハイライトとなる楽曲。この時点から、アンディモリのアルバム構成のひな型は完成している。一番後ろから二曲目にメッセージ性が強く、音楽的な強度の高い(説明不足すぎ)曲を配置し、ラストには少し肩の力の抜けた曲を置くというもの。題そのものはアゲアゲなエレクトロダンスミュージックに付けられていてもおかしくはないが、どこか皮肉的な意味合いで名付けられている感がある。

さりげなく、風に色を見るという感性はかなりぶっ飛んだものがある。共感覚。本当にサフラン色に見えたとしたら、この時から合法か非合法なドラッグをやっていたとしか思えない。いずれにせよ、ロックバンドを組むことになったのでとりあえず詞も担当しました、というソングライターのレベルではない。

マヤとは、goo辞書によると「幻想の世界を作る神などの力;幻想の産物」という意味らしい。人生なんて幻想のようなものである、という考え方なのだろうか。岡村靖幸さんが「青春時代のバイブルだった」と語る、岸田秀氏の『ものぐさ精神分析』で語られる唯幻論にも似るように思う。

すごくさらりと歌い上げているが、なんと悲しいラインなのだろうと思う。一つの真理だと思う。また、3rdアルバムの『革命』のテーマも、大きなくくりに入れればこの言葉と同じことをテーマとしている。期待したり、すれ違ったり、言葉を上手く届けられなかったり、言葉を上手く受け取ることができなかったり。

おもちゃもマンガも捨ててしまうよという言葉の重み。小山田さんはおそらく、捨てられなかった側の人間だろう。後のラインで、友だちと自分との間にある考え方や想いの違いについて語られていることから、この楽曲のテーマは小山田さんと友人たちとの、人生観の違いということになるのではないか。

現代人はあまりにも豊かだ。物質的な意味でもそうだし、情報的な意味でもだ。それらは、おもちゃやマンガ、TVPCという言葉に代えて歌われる。ある意味では、おもちゃやマンガを捨てるということは、これから日本が辿るであろう経済的な受難の道を示唆しているのかもしれない。そういった娯楽を消費することに興じているような余裕は、10年後≒先の未来にはなくなっているのかもしれないよ、ということ。

経済的な豊かさとはどこかの途上国から搾取することでしか生まれないという残酷な事実についてのラインと取ることができる。日本がこれから経済的に衰退していくことは、現在貧困で苦しんでいる国の人々が、先進国の「人並み」の生活を手に入れるために必要なことであり、今後どんどん「世界的な経済格差の解消」は進むだろうということである。つまり貨幣の「流動」だ。「悲しくはない」「気にしないでいいから」というのが、小山田さんなりのメッセージなのだと思う。変えることのできないことであり、受け入れるしかないのだから、そのことを悲しんだり悔やんだりしても仕方がないのだと。

日本が恵まれているということに気付けていない人、豊かな国であり続けるという願望混じりの観測をする人が多くいる。楽天的とも言えるし、現実を直視することを恐れているとも言える。そう言った人たちを見る時に、小山田さんはどう思うのだろうか。すでに小山田さんは諦念に絡めとられていしまっているように思える。きっとこんな警鐘も、誰にも届かないだろうと。小山田さんのこの叫びも、きっとほとんどの人には届かないだろう。それはある意味では、音楽として存在する以上は本望なのかもしれない。

友だちは繰り返しているが、主人公自身はその言葉に共感できていないように見える。小山田さんの声は届いていないようだ。もしかしたら、小山田さんも「あいつへんだよ指を差されたよ」ということになりそうで、何も言えないのかもしれない。「何も言えないでうつむくことは」という歌詞を思い起こさせる。

ここでの「空」の使われ方が、やや分からない……。空が、言っていることが矛盾しているように思える。この曲で描かれる「空」は、無根拠で楽天的な言葉を繰り返すだけの存在なのだろうか。まだ日本人が、「より豊かな明日」というようなビジョンを共有することができ、画一的な価値観のままでも生活できた頃の象徴が「あの日の空」?小山田さんが、「空」に対してマイナス的なイメージを付加させることは無いと思い込んでいたけど、そういうことなような気もしてきた。

とても良い言葉なのだけど、今すぐに行けばいいんじゃないか? という気もしないではない。坂道を行くバスも南の空へ行くということで、同じ方角だ。みんなが驚くということは、10年経った頃には、旅に行く≒自分の好きなことをするという選択はかなり意外なものとなっているらしい。みんな、仕事で忙しくしているのかもしれない。考察とは関係ないけど「驚くって、絶対ね」の歌い方がかわいすぎませんかね……?

ライフイズパーティと繰り返している友だちは、胸の中そっと燃えるランプについて知らない、わかっていない。ライフイズパーティという考え方とは反するモノの象徴が、ランプ?友だちが繰り返す「ライフイズパーティ」とは、彼が自らの経験から見出した人生哲学などではなく、誰かが言っていた言葉をなんとなく受け入れてしまっているだけなのかもしれない。いわゆる、世間や親から教え込まれた言葉でしかないということ。もしそういう意味合いなのであれば、主人公はそんな日本の一般的な感性よりもインドの偉い人の声に共感している節があり、自分の胸の中でそっと燃えるものがあることに気付いている。何かに縛られることなどなく、気分の感情や願望と向き合うということだ。そんな主人公から見て、友人は、自分の気持ちやしたいことに、胸の中にランプがあることに気付いてすらいないという状況なのではないかと思う。

少し引用が早いが、『SNOOZER』が2011年に発表した年間アルバムランキングにおいて、田中宗一郎さんは「もうずいぶん前の情熱などなくしてしまった。何度も繰り返し諦めを受け入れすぎて、もう自嘲的に笑うことが当たり前になってしまった。もはやアンディモリのように誰かに悪態をついたり、誰かをからかったりする優しさなどのこっていない。(中略)叫ぶことの無意味さを嫌というほど知りつくした少年達は、だが、祈りを手放しはしない」というコメントを寄せていた。少し記憶はあいまいだが、宮台真司さんも「全ての人に訴えかけることはあまり意味がない。自分の身のまわりの人から語りかけていくしかない」というようなことを書いていた。今の日本人のほとんどは、啓蒙など必要としていないのだろう。あの宮台さんが諦める、というか戦略変更を余儀なくされるというのは、僕にとっては相当重い事実。もちろん、小山田さんは、「友だち」に悪態をついたり、責めたりはしていないだろう。

2014/9/11
すごい速さ
とにかくビートが面白い!そのビートに、少しカクカクとぎこちなく言葉を乗せていくところもとても面白い。そして曲名通り、めちゃくちゃ短い曲だ。PVのストップモーションでどんどん住宅街を進んでいくと言う映像は、鉄男が元ネタだろう。曲の内容はまたもやモラトリアム的なものだが、どこか楽天的だ。

夏好きやね。熱が胸に騒ぐというのは、前の曲で歌われたランプのラインとかなり似ている。つまり、夏は過ぎてしまったのに、自分の胸の中ではまだ熱が騒いでいる。モラトリアム的な流れと重ねて考えるなら、「夏」とは学生時代のように熱に浮かされていることが許される期間のことを指すのではないだろうか。みんなの熱が冷めていくなか、主人公の熱はまだ冷めることがない、という状況だ。

やはり小山田さんの描く、邦ロック批判はあまりに鋭い。もちろん、ロックバンドやそのリスナーだけど指す言葉ではないだろう。しかし、それにしてもこのラインが胸に突き刺さる人は、大勢いるはず。考えてみると、日本のロックバンドのだいたいが、モラトリアム的な表現が多いように見受けられる。小山田さん自身の、自己批判が強く含まれているからこそこんなに強烈な言葉が生まれてくるのだと思う。

以上が、デビューアルバムである。

こうして振り返ってみると、楽曲のテーマは大まかに3つにわけることができる。1つめは勢いに溢れるわけのわからない歌、2つめは風刺的な歌、3つめはモラトリアム感溢れる思春期的な歌。1つめは初期衝動に溢れるがむしゃらさがあり、小山田さんも混沌なままコントロールしようとせずに吐き出しているようなもの。この先、小山田さんのソングライティング力の向上により、あまり見られなくなっていく。2つめは次作『ファンファーレと熱狂』でむしろ推し進められることになり、その後だんだんと減少していく。3つめに関しては、このアルバムのみで見られるものだ。というのもおそらく小山田さんの中に、バンドをやるということが社会で生きることからの逃避なのではないか? という気持ちがあったからではないだろうか。そういった楽曲がなぜ減っていくのかと言えば、自分の作った曲をCDにして売り、全国でライブをやることによって、自分の選んだ道が正しかったと感じられる場面が増えたからだろう。(もちろん、多くの人からリアクションが返ってくることで新たな苦悩は生まれたはずだが)このことから、このアルバムの主題としては「モラトリアム」であると僕は思っている。モラトリアムとは決断の留保期間だ。おそらく、この曲の主人公も、自分の道はここだと定めることは未だ出来ていない状態なのだと思う。進む道を決めるということは、別の道を進む人とは別れなければならないということだ。はじめからわかっているはずなのに、それが惜しくて立ち止まってしまいそうになる。そんな経験はきっと誰にでもあることだ。しかし小山田さんは、このアルバムの中で一度たりとも、別れを告げること≒自分の道を定めることができていない。そしてもう1つの特徴として、「僕」についての言及を周到に避けている点がある。このアルバムを聴いて、「小山田壮平がどんな人物か」ということが、どれほどわかるだろうか。いくつかの私小説的な詩においても、自分という人間に付いての具体的な言及は無いのだ。そこが同年代のバンドマンとの大きな違いであり、僕がアンディモリを好きになった理由だ。(本当にこの当時、「邦ロック」的なものにはうんざりしていたのです……)

そして小山田さんには、そうせざるを得ない必然性があった。それはこの先の作品で、少しずつ明らかになっていく部分であり、そこが、アンディモリが自分の中でどんなバンドよりも大きな存在になった理由だ。しかも考えてみると、これらの楽曲は全て「エレキギター」「ベース」「ドラム」「声」の四つで構成されているのである。アコギやピアノすら使っていない。青い空や都会を走る猫のような楽曲であれば、アコギで鳴らされていてもおかしくはないはずだ。ある意味では、三人の肖像画だけのシンプルなアルバムジャケットというのは、象徴的と言える。海外では、1st、2ndのアルバムが最高傑作で、その後のキャリアはあまりパッとしないというバンドが大勢いる。(日本だとあまり聞かない)初めてアルバムを作る時は、自分の好きな音楽を全て詰め込もうとしてしまい、完全燃焼してしまう。結果的に、次の作品を作る時になって、やりきってしまったためモチベーションがあまり上がらなかったり、何かやろうとしても「これは前の作品でやってしまった」ということになってしまったりするのだ。本作における純3ピース構成が、周到な計算なのか、無意識にそうしたというだけなのかはわからない。しかし結果的に大正解だったと言えるだろう。また、自分の声が出せる音程の限界スレスレのところまで使っているのも面白い。(ハッピーエンドのアレはあざといけど)ライブでの再現の問題もあるとは言え、自分が歌いやすい音程しか使わないのであれば、楽曲のバリエーションも広がらないというもの。こうした、発想を技術的要因で狭めてしまわないところも、アンディモリの魅力の一つと言えるだろう。というか、本当に楽しい歌の詰まったアルバムだ。小山田さんのへんてこな歌い方を真似してみるだけでも、相当面白い。

和製リバティーンズとは言うけれど、音楽性に関してはあまりリバティーンズには似ていない。がむしゃらな演奏やつんのめるようなボーカルスタイルが彼らを彷彿とさせ、小山田さんがリバティーンズを愛好しているためにそんな枕詞が付いたのかもしれないが……。音楽性自体でいえば、むしろリバティーンズに影響を受けたブリティッシュ・ロックバンドとの共通項の方が多いだろう。リバティーンズとはほぼ同期だがレイザーライト、ザ・ヴュー、アークティックモンキーズ等のバンドは、アンディモリと同世代と言ってもいいほど近い音を鳴らしている。ちなみにレイザーライトは破天荒な人格で個性的かつアグレッシヴなドラマーが1st発表後に脱退しているという点で、個人的にはとても似ていると思う。彼らの1stアルバム『アップ・オールナイト』と、デビュー前の音源を集めた編集盤EP『レイザーライト!』(セカンドアルバムとタイトル被り)などはアンディモリの音楽性を愛好する人はきっと気に入ると思う。

以上が、1stアルバム『andymori』の、3年の間で感じたことと考えたことのメモだ。


『andymori』

お金の限界が見えつつある世界で。または文化の時代について

「金が正義」という経済の時代の終わりが本格的に見えてきたことによって、ビジネスや広告を主軸に働く人でさえも、「文化の時代」を意識し始めた。 文化とは“人の心の集積”である。「人の心」とは、愛、美意識、信念、矜持、

志村正彦を愛した皆様へ

あれから5年が経った。記憶を整理するのに5年という月日はきりがよくてちょうどいい。 僕にとってもそれは、悲しみを、悲しみとして告白できるくらいにしてくれる時間であった。 正直に言うと毎年この季節になると、志村について

185,000字で書く、andymoriのすべて(1/6)

アンディモリの原稿を書かせてもらうことにした。 もともと、アンディモリについてはいつか書きたいと思ってはいたのだ。けれど、彼らの作品に触れたことがある人には分かってもらえると思うが、彼らの楽曲はあまりに難解で複雑だ。