西野カナの圧倒的な作詞技術とそれを活かす音楽ジャンル

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くいしん twitter.com/Quishin

西野カナの最新作が凄い。2015年第一弾シングルとして4月29日にリリースされた“もしも運命の人がいるのなら”は、たしかにその大半がいわゆる「白馬の王子様待ち」の心情を歌ったものだ。ネット上では「今度の西野カナは、出会ってすらいない」と揶揄されていたが、実はそんなことはない。

たしかに1回目、2回目のサビでは理想の人を追い求める心情のまま終わっている。しかし、3回目のサビではこれが反転する。

つまりここで楽曲の主人公は、理想の人を追い求めるわけではなく、現実を見つめることになる。

ここで描かれる人物像は、実際に主人公に遭遇している「リアルな知人・友人」だ。白馬の王子様を待つだけの自分に、決別するのである。

西野カナの真骨頂は歌謡曲

本作“もしも運命の人がいるのなら”と、前々作“Darling”によってわかったのは、西野カナの真骨頂は、R&Bでもなくエレクトロ・ミュージックでもなく、どこか昭和風ポップスを感じさせる「歌謡曲」であることだ。

元々は安室奈美恵、浜崎あゆみ、倖田來未といったavex楽曲を彷彿とするエレクトロ・ミュージック、またはR&Bが多かった。しかし、これらが2010年代以降の日本のポップスシーンにおいてどこまで有効に機能するのかという点には疑問が残る。

それはユーロビート、トランス、EDMと呼ばれてきた若者たちのためのダンス・ミュージックがその順を追うごとに、少なくとも日本においては、よりセグメント化が加速していきマーケットが小さくなったことからもわかる。同時に、一般の音楽ファンとクラブ・シーンの乖離が大きくなっていったことは言うまでもない。たとえば、ディスコは「時代」と言えるが、EDMは一部の人のものでしかない。

時代の空気は「ダンス」ではない

そしてこれらの事実は、西野カナの変化がファションシーンで言うところのノームコアや、ライフスタイルシーンで言うところの上質な暮らし的な文脈ともリンクしているとも考えられる。「手の届かない憧れよりも、身近なものやシンプルな気持ちの重要性に気づこう」といった具合だ。この曲は「白馬の王子様に憧れる」という文脈がダサいと理解される時代に、「白馬の王子様を待てない」と着地するのだ。

そして作曲は、山口隆志

前々作“Darling”と“もしも運命の人がいるのなら”の作曲は、山口隆志というギタリストだ。アーカイブが少なく、ネット上からは音楽変遷を探ることが難しいが、彼は多保孝一と親交が深いようでchayのアルバムにもウクレレとして参加している。多保孝一と言えば元Superflyのギタリストにして、日本のシーンで60’s歌謡を21世紀の日本のポップスに変換する能力においては一番のコンポーザーと言っていい。その才能の凄まじさについては、chay“あなたに恋をしてみました”を聴いてもらえれば理解してもらうのは簡単だ。その界隈の人間である山口隆志が、西野カナ楽曲を手がけることで生まれた化学反応が本2作ということは覚えておいて欲しい。

“もしも運命の人がいるのなら”について西野カナは、MUSIC FAIRにて、「今回の曲は、まだ見ぬ運命の人への理想や夢とか、現実は妄想したりっていうのを、ひとりごとみたいに歌ったコミカルな曲です」と評している。これが、常人には理解できない天才のしかるべき言葉だということは、ここまでの文章を読んでくれた方ならわかってもらえるかもしれない。

参照:『もしも運命の人がいるのなら』

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