寂しくて悲しくてつらいことばかりならば あきらめてかまわない 大事なことはそんなんじゃない|田中元の岡村靖幸レビュー(1/3)

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田中元 twitter.com/genmogura

2011年9月8日、3年前からずっと好きだった人のライヴを観てきた。いろいろと不安も多かったのだけど、僕が今まで見てきたライヴの中では断トツで一番だった。それまでは、同じ新木場で観たMIKAがベスト・ライヴだったのだけど。

一曲目のイントロと、カーテンと照明を使った演出を観ただけで、この人のライヴにかける意気込みが伝わってきた。楽曲にコール&レスポンスを組み込んで巧みに観客を先導し、本人自らキレまくりのダンスを披露するというエンターテイナーぶりに魅了された。

僕はCDと同じ演奏をし、面白くないMCなんかを挟んでくるライヴを観ることには価値を見出すことができなくなっていたのだが、この人のライヴで演奏される楽曲は大胆にリアレンジが施されている場合がほとんどなうえ、MCはピアノやギターの弾き語りの即興演奏に言葉を乗せて行うなど、そこらの予定調和なライヴとは一線を画していた。

さらに、本人の趣味であるクラブ通いの影響なのか、曲と曲をそのまま繋げてくるのである。ただでさえ音源とアレンジが違うから曲がどこで終わるのかわからないのに、興奮のボルテージが上がりきったまま次の曲に突入していくという展開には、筆舌に尽くしがたい恍惚感を覚えた。

とにかく、その人が目の前に居るという事実がとても嬉しかった。本当に本当に、最高のデートだった。

ステージが終わってみると、新しい音源はいつ届くのか、音楽的には申し分ないものになるのだろうけど肝心の「歌」はどうなるのか……と、どうしても後ろ向きな考えもしてしまうのだが、本人の笑顔があまりにも眩しかったので、今回こそはきっと大丈夫なんじゃないかという気がする。

僕はここ5年くらい、

→ 日本語で歌うミュージシャンの作品に惚れこむ
→ 作品を一気に集めて何ヶ月か聴きまくる
→ その人のルーツになった音楽を聴いて影響とかを探してみる
→ 少し飽きてきたら他の音楽を聴く
→ また誰か日本語で歌うミュージシャンに夢中になる

というサイクルを繰り返している。

一度聴き込みまくったミュージシャンについては、その後、熱狂が抜けていってふとしたときに聴きたくなるか、一時的に聴くことを避けたくなってしまうかのどちらか。

今年聴きまくったのはアンディモリと矢野顕子さんで、この人たちの作品からは多分遠ざかることは無いと思う。この方々についても機会があったら書きたい。

前回書かせてもらったシロップに関しては、いろいろと複雑な想いがあって後者であった。ただ、そうやって音楽を聴いている僕にも1人だけ例外がいる。それが岡村靖幸さんだ。岡村靖幸さんの作品は、3年前に出合ってから一度も飽きがきていなくて、ずーっと聴いている。

何度聴いても鳥肌が立つ曲がある。聴くたびに涙が出る言葉がある。作り出す音楽だけでなく、そのまっすぐな生き方や高潔な精神に、とにかく感動してしまう。この人が作る曲は男女の関係をテーマにしたものが多いのだが、歌われている内容が、僕が潜在的に欲していたものだったのだと思う。

世間的には“聖書”や“いじわる”、“DATE”のようなあけすけにエロくて変態的なイメージが強いと思うのだが、岡村さん自身は本質的にはアイドル声優のスキャンダルで大炎上する現代のオタクに近い部分もある。

思春期に松田聖子さんに心酔していた岡村さんは、彼女が実生活では恋多き女だと知り本気で傷ついたのだという。誠実さが感じられないのだとか。作っている楽曲には過激な部分もあれど、本人は誰よりも恋愛に対して潔癖な態度を貫いていたようだ。良くも悪くも……。

学生時代の唯一の恋愛経験では相手に二股をかけられてセックスはせず、高校卒業後に作曲家として上京してからは女性と付き合ったことは無かったという発言を照らし合わせると、シングルの“だいすき”を発表した時点では童貞である模様。

そういった事実を踏まえると、僕の持つ恋愛や女性そのものに対する考えや経験は、岡村さんとけっこう近い。

僕は2008年の10月から岡村さんの音楽を聴き始めたのだが、当時の僕は、初めて彼女ができたかと思ったら光の速さで別れを突きつけられ、死のうと思うっていた頃だった。

もともと自分のような人間が生きていてよいわけがないとは思っていたし、芳しくない経済的事情や、自分自身の労働意欲の低さから、大学を出てみてもまともな暮らしができるはずがなかったので、彼女ができる前からわりと冷静に考えて自殺した方といいと思っていたのだ。

大学生活も3年目に突入し、就職活動が眼前に迫って来ていて、そろそろ潮時だなと考えて首を吊るための縄と釘を買ったりした。

だけどそんなタイミングで、世界で一番かわいい容姿の女の子が僕の悩みとかトラウマを埋めるような行為をしてくれた。

そのうえさらに、好きだと言ってくれる。それは好きになるっちゅうねんって話ですよ。無理もない無理もない。

僕のような不細工でファッションセンスもなく自己中心的で卑屈な人間が付き合えるはずが無いレベルの可愛さだったし、本当に優しかったし、彼女も彼女で少し生きづらさを抱えている人だったので、僕にも何かできることがあるんじゃないかなんて錯覚をしてしまった。

結局自分勝手に自分が抱いていた誇大な恋愛の幻想を振りかざして相手の気持ちを考えない行動ばかりとっていたので、すぐに振られた。あまりにも当たり前な結末だった。

その時に死ねばよかったんだけど、彼女のことを諦めきれなくて、学校の勉強を頑張ってみたり、生活を改善しようと思って、それまでと比べたらではあるがそれなりに努力してみたり。けど、やっぱり死にたかったりした。

たまに彼女にメールしてみても、返事がくることは少なかった。そんな状況だったから、何かしら心のよりどころを必要としていたのかもしれない。あれ、岡村さんとは全然似てないなあ……。

まあ無理やり共通点を見つけ出すなら、魅力的な女性には恋愛に対して誠実であって欲しいと勝手に考えてしまうところ、初めて付き合った女の子と全然うまくいかなかったこと、実際に女性と接する機会はあまりないのに妄想ばかりしているというところか。

岡村さんの曲を聴き始めた時は、「岡村靖幸」に対する知識は覚醒剤がらみのスキャンダルくらいで、ただただその楽曲の魅力に引き込まれたのだが、1人の人間に対してこんなにも興味を掻き立てられるということは、それまで経験したことが無かった。

どんな人生が岡村さんにあんな歌を作らせるのか、知りたくなった。だが、そこらの古本屋ではインタビューが掲載されている雑誌が手に入らなかった。けれどとにかく、この人がどんなことを語っているのかが知りたくて、雑誌のバックナンバーのコピーを取りに国会図書館まで足を運んだ。

そうしてこの人のことを知れば知るほど、表舞台での華やかな活躍とは裏腹に、誰よりも深い心の闇を抱えていることがわかり、全く関係のない僕まで辛い気持ちになったりもした。けれど、自分がどれだけ苦しんでいても、人々を混乱させるような作品を発表することはせず、常に「ポップ」であり続けようとする志を持っている人だということもわかった。

例外に、ネットのみで公開の、自責の念だけで作られた“bambi”があるにはあるが……あれを聴いてしまうと、自殺しなかっただけでも奇跡だとすら思う。

この文章を読む人の多くは、おそらくいろいろなところで岡村さんの名前を見聞きしたことがあるかと思う。川本真琴さん、meg、SOPHIAなどがこの人のプロデュースによる楽曲を制作しているし、つんく♂や及川光博さん、ミスター・チルドレンの桜井さんはこの人の楽曲をカヴァーした。

音楽家に限らず、この人に影響を受けたと語る人は枚挙に暇がない。この人のいなかった日本の音楽シーンを語ることなど、不可能だろう。多少なりとも日本のポップ・ミュージックに関心を持っているのであれば、誰もが必ずいきつく存在だ。だが、そんなカリスマ的存在であるにも関わらず、現在TVや雑誌がこの人の話題を積極的に取り上げることはない。

いくつか原因は考えられるが、覚醒剤取締法違反で3度も逮捕されているということが最も大きいだろう。まあ、それでも、近年はネットの情報があるし、『モテキ』や、今夏の復活劇から、新しく入ってきたファンは増えているみたいだけど。

僕が初めて聴いた作品は、5作目にあたる『禁じられた生きがい』だった。正直あまりハマらなかった。歌詞が抽象的すぎるのと、独特の歌唱法のせいで、何を言っているのか全く分からなかった。そして音の数の多さと曲の展開についていけなかった。

家で音楽を聞く時は、安いCDラジカセを使っているので、岡村さんのサウンド・プロダクションの妙を味わえなかったということもあるけど、このアルバムは今でもほとんど聴くことが無い。

今にして思うと、スランプ時に作られた作品なので、自信のなさを隠そうとしてアイデアを詰め込みすぎているように感じられるのだ。その2点は初めて聴いた僕にはなかなか厳しいものがあり、前々から気になっていたものの、実際に作品を聴いてみたことで、ほうぼうへ影響を与えていると言われる割には面白くないな……という印象を受けた。

脂の乗りまくったファンク・ナンバー“青年14歳”、答えの出せない問題に苦悩する“パラシュート★ガール”、自分には受け入れがたい世代の人間にも理解を示そうとする“チャームポイント”など、岡村さんを理解するためには重要な曲はあるが、入門編には不向きだと言わざるを得ない。

それから3ヶ月ほど経ち、立ち寄った中古CDショップで岡村さんの『早熟』という作品を見つけた。一応、活動歴の長いミュージシャンの作品を聴く時には1作品聴いただけで満足してはいけないと考えているので、手にとってみた。そして、その潔いまでにアレなジャケットに目を奪われた。

禁じられた生きがいのブックレットでは、濡れたガラス(ファインダー?)越しに妙に角度を付けた顔写真しか載っていなかったのに対し、この逃げも隠れもしない堂々とした態度はなんなのだろうか。

ぴしっと整えられた黒髪が清潔感を演出し、屈託のない笑顔からはスポーティな爽やかさがにじみ出ていた。この人が、ポップ・ミュージシャンとして最悪の困窮に陥るなんて想像できない。やや引いたものの、収録楽曲を確認するためにケースを裏返して、そこにも本人の顔写真がコラージュで敷き詰められていることに驚嘆した。裏ジャケットにも曲目は記載されていなかったが、言いようのない衝撃を受けた僕はその作品を購入することにした。

ポップ・ミュージックの世界では作品を象徴するか、あるいは単純に面白いイラストや写真をカヴァー・アートとして使用するのがほとんどだが、ごく稀に、何も気を衒ったところのない本人の写真が作品をすっかり説明してしまうことがある。

スクエアプッシャーの“ウルトラヴィジター”しかり、ジェフ・バックリィの“グレース”やエリオット・スミスの“イーザー/オア”しかり、この時は知らないのだけど矢野顕子さんの“ごはんができたよ”やP-MODELの“ワン・パターン”しかり。

それはメイクや衣装がばっちりのアーティスト写真しか使わないこととは、同じではない。現代であればPCで加工しまくったりとか。これを聴いて何も感じなければ僕は岡村さんのことは好きにならないだろうという確信があった。帰宅して、三面背のケースを開いて、言葉を失った。そこには、これでもかというくらい真面目な顔つきで裸の上半身を披露している岡村さんがいた。これは、どこに出しても恥ずかしくない変態である。

乳首丸出しやがな。

調べてみてわかったことだが、この作品は3作目までの楽曲を集めたベスト盤だった。音楽不況の昨今、アルバムを1枚しか発表していないにもかかわらずベスト盤が発売されるという事態も起きているようだが、『早熟』が出たのは90年。
大手レコード会社はバリバリの最盛期だと言える頃だ。

これは金策の一環と言うよりも、86年にデビューを果たし、上昇し続けた岡村さんの人気に応える形で作られたもののようだ。僕の中では岡村さん=『禁じられた生きがい』の複雑な展開と難解な日本語詞というイメージだったのだが、歌詞の聴き取りづらさはあるもののこちらはウェルメイドですんなりと理解できるポップソングのオンパレードだった。

1曲目“ピーチ・タイム”は、サーカスの出囃子のようなイントロが鳴り、そこから激しいエレキ・ギターと、清涼感のあるアコギによる骨太なファンクへと転がりこむ。しかも歌詞は独特にアホっぽくて青臭くて、なのに本人は一点の曇りもなく大真面目。文脈どころか、単語ごとの繋がりすらも支離滅裂で、歌詞カードだけ見るとまったくわけがわからないのだけど、それらが岡村さんの音楽に乗せて歌われると面白かった。

まず、ピーチタイムって言葉の意味が分からない。表面に生えている細かい毛のせいで、皮をむかずに食べてしまうとすると痛い想いをするが、じっくり時間をかけて剥いていけば甘い果肉にありつける桃を女の子になぞらえているのだろうか。

その次に、世界で最もポピュラーな愛の言葉を述べたにもかかわらず、ビビッとナンパをしたがる意味が分からない。ダウンタウン・ボーイっていうのも、どこから出てきたのかわからない。その次のラインに出てくる「困難」も、いきなり固い言葉なので馴染みが良くない。であるにも関わらず、楽曲からは言葉より多くのものが伝わってくる。

歌い方も、この曲の中だけでも、エルヴィス・プレスリーのようにしゃくり上げながら歌ったかと思えば、アイドル歌謡のように爽やかなコーラスを迎えたり、バラエティ豊かだ。

この人は、いったい女の子を何だと思ってるんだ?という想いでいっぱいになった。まあ、この人のことを深く知れば知るほど、いろいろな意味で「女の子のことを何だと思ってるんだ」という想いは強まっていくのだが。この曲の内容を要約すると、自分自身のことをもっとよく知りたいのなら、うじうじしていないで女の子に話しかけろよ、といったところだろうか。女の子に好きになってもらうために頑張るが、少し滑稽な姿も歌うところは僕がこの人に強く惹かれていく理由の1つだ。

2曲目の“ドッグ・デイズ”も、高飛車なギャルに振り回される純情な少年という図のバブルっぽさは、岡村さんの定番パターンである。

3曲目の“ライオン・ハート”は、ハリウッド・バージョンなるアレンジ版なのだけど、その名の通りロマンティックなハリウッド映画のエンディングにでも流れそうなビッグ・バンドによる演奏曲。だが、大げさすぎて、正直原曲の良さが何も生きていない。

4曲目の“だいすき”はアイドル的な側面の岡村さんの仕事の決定版といえるだろう。乗用車のCMソングのタイアップが決まってから、1週間で完成させたらしい。この頃の岡村さんはとにかくワーカホリックで、食事も睡眠もとらないままスタジオの籠りきっていて、ぶっ倒れるまでレコーディングをしまくっていたというエピソードがある。楽曲はおそらくプリンスの“アイ・ワナ・ビー・ユア・ラヴァー”が下敷きだろう。

歌詞の内容は概ねド直球と言えるもので、ギャルと海にドライヴに行き、突然雨に降られたけど、おかげでラブホに入れましたよ、というもの。

歌い方がとにかくエロいのに爽やか過ぎて、この路線を真似ることができている人を僕は知らない。特に「あまぁーい」と「あかぁーい」の部分。アウトロの「へぽたいやー」なんて意味不明の言葉をコーラスに組み込んでくるあたりも、とにかく岡村さんが自信に満ち溢れていた時期だったのだと思わせる。PVは時代がかっているが、岡村さんが最もハンサムだった頃のものなので、必見である。カラオケにもPVが入っているのでおすすめ。

5曲目の“アウト・オブ・ブルー”は、岡村さんのデビュー曲である。

もともとは、作家によって書かれた詞が存在したらしいのだが、それを岡村さんは「心を込めて歌えなかった」らしい。

そこで他のスタッフに「そんなに言うなら、お前が書け」と言われ、それまで作詞の経験が無かった岡村さんの手で今の詞が付けられたのだという。

その完成度の高さは若干21歳の青年が書いたと言われてもにわかには信じがたいものだ。

愛する女性が悲しみに暮れているのに、自分は何も出来ないという、よくあるシチュエーションのこの楽曲が優れている点は、フックの効いた詞にある。

僕が初めてこの曲を聴いた時は、振られてから4ヵ月も経っていたのに未練がありまくりだったので、歌詞に胸の中をかきむしられる想いだった。考えてみると、岡村さんがこの曲を書いたのと同じ年齢だったわけで、同い年の人の言葉ということでなおさらリアリティがあったのかもしれない。あまりにも自分に都合のよい考えしかしていなかったのだなあと今になっては思うのだけど。

この曲には「処女作には作家の全てがある」という説が当てはまるだろう。楽曲自体は、後に孤高のポップ・スターとなる岡村さんの仕事と比べればかなりシンプルではあるが、処女作であり、未だに岡村さんの1つの頂点と言える楽曲だ。

7曲目の“イケナイコトカイ”は、正直な感想を言うと、アレンジそのものは岡村さんの作品の中ではかなり凡庸なバラッドだ。だがその分、岡村さんの歌声には相当な気合が入っており、最もソウルフルなものを堪能することができる。

ちなみに歌詞に出てくる「ドンファン」というのはポケモンの名前ではなく、伝説上のヤリチン貴族のこと。

11曲目“ヤング・オー! オー!”は、3枚目のシングルで、アレンジこそシンプルではあるものの、タイトル通りド直球の青春ソング。自分をたぶらかす女性への苛立ちを息継ぎなしで抑揚を付けまくりながら叫ぶ。

後半に訪れるドゥーワップ・パート、そしてなだれ込むように演奏が加速化する様などは何度聴いても鳥肌モノ。

12曲目“友人のふり”は、意中の女の子は他の男のことが好きで、その子が傷ついているのを慰めているというシチュエーションのバラード。岡村さん主演の映画の主題歌としても起用された。

後述するが、この曲の主人公の独白部分は、岡村さん自身のことを歌っているとしか思えない。この“早熟”アルバムとしてのまとまりも良く、初期の曲はボーカルが録り直されていたり、音もクリアに加工されていたりするので、まず1枚岡村さんを聴いてみようという人にはオススメ。

レーベル移籍に伴って発売された『OH! ベスト』については、オリジナルアルバムには収録されていない曲が入っているが、年代順に並べたり、曲順を凝ってみたりという配慮がされていないので、正直微妙。僕としては“ステップUP”が入っていないのが最も許せない。ただ、“ハレンチ”“真夜中のサイクリング”などは他では手に入りにくいので、そういう意味では便利。

とまあ、そんなふうにして僕は岡村靖幸さんの、最も才気溢れていた時期の作品を聴いてしまったわけである。これと並行して、後に全作品を買い漁るP-MODEL≒平沢進(先生)に出合ったりしたのだけど、これはまた別の機会に書けたら書きたいです。

そして現在まで続く岡村靖幸信仰が決定的になったのが、その年の12月23日だった。その頃の僕はバイトを辞めてからけっこう経っていたので、お金がなかった。その日は友人がCDを借りたいということで一緒にツタヤに来ていたのだが、「あと1枚あればまとめ借りで安くなるから1枚好きなの借りていいよ」と言ってくれたので、『早熟』のあとに発表された『家庭教師』というアルバムを借りることにした。

その作品を手に取った理由は簡単で、ずっとタイトルだけは知っていた“あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう”が収録されていたからだ。そしてこのジャケットの混沌たるや!

いや、作品を聴けばなんとなく「ああ、これはこういうことかな」と腑に落ちる部分もあるが、どういう発注をしたらこんなイラストになるのか、未だに気になって仕方が無い。

この作品が発表された頃というのは、武道館ライヴを成功させ、演技なんてできないのに人気があるせいで映画の主演をこなしたり、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった岡村さん。

デビュー当初はおとなしくある程度スタッフの言うことを聞いていたものの、アイドル的な側面はありつつも人気は沸騰していたし、音楽的な技術の高さ、アイデアの豊富さと面白さは誰もが認めざるを得なくなり、やりたい放題できる環境を作り上げてしまっていたようで、このジャケットなどそんな状況をよく表していると思う。そしてこの作品は岡村さんの最高傑作であり、日本のポップ・ミュージック史における偉大な金字塔である。

同世代の期待を一身に受けながら、自分のことを煙たがる人間たちと真っ向から取っ組み合いを繰り広げている。プリンスや松田聖子さんに憧れていたかつての少年の姿は薄れ、この作品は「岡村靖幸」としか言いようのない個性が刻み込まれている。

一曲目“どぉなっちゃってんだよ”はそんな状況を反映させるかのように、イントロからしてこれまでの大量消費を前提としたポップスとは全く違うことを示している。

早熟でも前兆はあったものの、楽曲のサウンドプロダクションの凝り方が尋常ではない。ドラムの音だけでも一体どれほどの数を使っているのだ!と思う。またアイデアも大量に投入されていて、様々なジャンルを横断していく様には90年代に花開く渋谷系音楽への萌芽も見ることができる。あの早熟スマイル=岡村靖幸という認識だった僕は、またここで脳天を貫かれるような衝撃を受けることになった。リズミカルに刻まれるギター、這い回るようなベース、そして長台詞を一気にまくし立てるヴォーカル。一呼吸の内に声が変容していく様は、圧巻としか言いようがない。

2曲目の“カルアミルク”。これは前述した桜井さんが、バンク・バンド名義でカヴァーした楽曲である。クラムボンもカヴァーしている。まあ、名曲中の名曲なのだが……なんと定義したらよいのかわからない。

物語は、おそらく既に恋人同士ではないが、決定的な離別はせずに曖昧な関係を続けている男女というシチュエーションが男のモノローグで語られていく。

二人の関係をこの先どうしたいと思っているのかについては、「でなおせる」という言葉が使われている。「やりなおせる」ではないため、物語に対していくつかの解釈があるので、その中の1つを書いてゆくことにする。そして彼女から、ごく稀に男の家へ電話が掛かって来るのだが、復縁を迫る内容ではない。

女が語ることは、男にとって、2人が過ごした時間の思い出が摩耗するような内容であり、電話はおそらく毎回ケンカで終わるのだろう。詳しくは語られないが、まあ、今の男や恋愛の話とか、なんじゃないかな。

男は、彼女にとっての「一番の人(≒優勝)」になりたいと、心から願っていたのだろう。明確に、自分は彼女にとって他の男より劣っていると判断されてしまっているのだという、その感覚。もちろん、彼女にとっては男への愛情は冷めているので、次の恋愛が始まるのはごく自然なことなのだろう。

僕は当時(以下略)

僕の場合は、「他に好きな人ができたの」とは言われなかったのだけど、まあ……考えるじゃないですか。はあ……。話を戻します。男は現在の自分の生活を語る。朝の通勤ラッシュが終わるくらいの時間までは遊んでいるらしいので、まあ普通に会社勤めをしている人間ではないのだろう。このことが妙に、芸能界関係者を思わせる。

「知らない女の子」は、おそらくディスコで引っかけるのだろう。きっとデェーンス(ダンスのことね)をしながら相手に近寄り、相手のヒップにしゃがんで「ベイベー、君さえよければ誰にも述べれない僕のでっかなホームですっばらしいピーチ・タイムを築こう。オゲッ、そんじゃ目を閉じてみて僕のジャンパーの袖にしがみつけよ」みたいなことを言って口説いたに違いない。

そして部屋に上げたものの、そこには「君」と過ごした思い出が色濃く消えずにいる。もしかしたら、レンタルのビデオも、彼女と一緒に見た思い出の作品だったりするのかもしれない。セックスはしない。できない。「君」のことを忘れるために、一晩を共にしてくれる相手を見つけてきたのに、朝になって残ったのは「どんなものでも君にかないやしない」という決定的な事実だけ。

男にとっては、彼女こそが絶対の存在であり、「ベイベー」であり続けているのだ。コーラスの部分では、男は彼女と仲直りをしたがっていることがわかるが、それがそのまま復縁を望んでいるのかというと、そうでもないらしい。そして、実際に彼女に電話をかけるでもなく、独白をするに止まっている。そして間奏が明けの歌が、ちょっとひどすぎる。

女の子って別にそこまでか弱くないと思う。特に恋愛の痛手からの立ち直りについては、むしろ男の方がうじうじと思い悩み続ける傾向が強いというのが通説だ。だけれど、この男は、この独りよがりな罪悪感によって強く打ちのめされていることが、このラインでありありと示されている。きっと彼女は「ごめんなさい」なんて言葉、もう求めていない。

当時僕は(略

こちらが一方的に加害者であるという点でこの曲とは状況を異にしているけど、自分がした最悪な振る舞いについて、相手に対して申し訳ないことをしたという罪悪感を抱えていたものの、もう別れているので今さら掘り返して謝ることもできないという状況だった。

今になって考えてみると、彼女を傷つけたという事実もそうだけど、それ以上に彼女が離れてしまう原因だから後悔していただけなんじゃないかという気はする。

結局直接謝ることができたのはだいぶ後の話なので本当のところはどうだったのかはわからないのだけど。

曲の話に戻すと、男にとっては残酷な事実だが、彼女はとうに前を向いて歩き出しているのだろう。

そしてコーラスが繰り返され、岡村さんのアドリブで曲は終わっていく。この楽曲が、ただ、彼女との思い出に浸って枕を濡らす歌なのであれば、この曲はビートが速すぎる。

ただのバラッドにするなら、この半分にするのが望ましいだろう。むしろ、ピアノの弾き語りでも構わないはずだ。ただ、そのアレンジが絶妙に、この曲の独特の持ち味を高めていることは確かだ。そして岡村さんの楽曲はほとんどそうだけど、楽曲の構成の仕方が巧みである。

岡村さんは映画観賞が趣味らしく、そこで培った知識が作詞の際にも活きているのだろう。ちなみに、自身の主演映画の第二弾として自ら脚本を執筆していたそうだが、その脚本の進捗状況について「納得いくものがどうしても書けなくて……」とぼやいていたのが、完璧主義な岡村さんらしいなと思った。おそらく歌詞に関してものちに同じ状態に陥ったのだろう。

それにしても、この曲の主人公の、東京の夜の生活をエンジョイしているように見えて、実は心の奥に少年性を秘めている感じが、どうしても岡村さん本人が強く投影されているようにしか思えない。

であるからこそ、ここまで情感を込めて歌えるんじゃあないだろうか。

3曲目“(E)na”は、「カッコイーナ」と読むらしい。すっごく高価な買い物をしまくる彼女を満たしてあげるために奮闘する男の歌なのだが、歌詞は正直意味わからない部分が多すぎる。アウトロの、車のエンジン音の後にチャイムの音が鳴り「ハアーイベイベー」とささやくところから察するに、男はいつでも好きな女の子の前ではカッコつけていたいのだ、ということなのだろうか。

ただ、川本真琴さんにも受け継がれる乱数的なアコギや、跳ねまわるようなスネアのメリハリ、軽快なホーンなど、異常な音の作りなのにポップに仕上がっているところはさすが。

4曲目“家庭教師”。もしも岡村さんが家庭教師だったら……というコントだと捉えるべきだろう。この方向性は突き詰めていって、“コンビニ店員”とか“バス運転手”とか“料理の鉄人”とか、いくらでも面白い物が作れたんじゃないかと思うのだけど、天丼じゃんとか言われちゃいますかね。まあこの曲はノリだけで書かれたところはあると思う。設定の整合性があまりない。

ただ楽曲が、エロすぎる。性交時の乱れた息遣いを模した声でリズムを生みだすというアイデアや、えも云われぬほど淫猥なギターには舌を巻くしかない。アルバム発売時のツアーで披露されたこの曲は、10分を超えるロングバージョンとなっている。

後半は普通にコント仕立てになっているので、動画サイトとかで探してみてください。内容については言及しないけど、めっちゃ面白いです。こういう宣伝の仕方は良くないと思っているのだけど、あんな傑作DVDを廃盤にしたままのレーベルが悪い。で、観て面白かったら、岡村さんの作品をしっかり購入して、お金が回るようにしてあげてください。

そんな狂騒的な下ネタ・ソングのあとに、“あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう”は収録されている。初めて聴いた時、イントロですでにヤられてしまったことを強烈に覚えている。キラキラと輝くようなアコースティック・ギターの音色に微かにズレのような感覚があるのだが、それが妙に心地よい。技巧的には演奏することがそこまで難しいわけではないらしいのだが、とにかくこのアコギの音色が……すごく好きなのだ。

同じく鳴らされる手拍子は、試合を応援する生徒たちによるものだろうか。

そこへおずおずと弦楽が鳴り響き、耳をくすぐる。

そしてキックが早鐘のようにビートを刻み始め、焦燥感を生む。

バスケットの試合に「35連敗」しているチームのメンバーの1人が、周囲が諦め始めているにもかかわらず希望を捨てていないという状況が歌われるのだが、さすがに負けが続きすぎである。

“聖書”の歌詞にある「35の中年」に被せたのだと思うけど、いや、さすがに負けが続きすぎである。

ただ、もう、コーラスに突入する直前のラインに、僕が岡村さんに心酔する理由が集約されている。この人は、1人1人の持つ可能性というものを本当に信じているんだと思う。

岡村さん自身はカリスマ的な天才に見えるが、本人は自分のことを普通か、ちょっとさえないヤツくらいに思いながら高校生時代を過ごしていたようだ。実際、そこまで輝かしい時代ではなかったというエピソードを様々な所で語っている。

だが、そこからスターダムにまで駆け上がることができたという事実があるため、誰もが大きな可能性を秘めているのだというメッセージを常に込めている。
岡村さんのそんなところに、僕は強く惹かれる。そしてコーラスの声の重ね方がまたチャーミングだ。人の心を打つポップソングの公式を、この人は持っているんだろうと思う。

Bメロに入り、今度は、就職か進学のために、親元を離れる場面が歌われる。最初のラインと被せたのだろうけど、電車が出る15分も前からパパとママが手を振っているというのは異常だと思う。

その後の、全ての人生を祝福するかのようなまばゆい展開。それがあって、はじめてこの曲が完成される。この曲を聴いて、ネガティヴな物語を想像する人はそうそういないだろう。試合に負けたってかまわない、あきらめたってかまわない。

言葉を重ねて意味を限定していくよりも、音楽に雄弁に語らせるというポップ・ミュージシャンとしての確固たるポリシー。最高。また、この曲はシングルとして発売された際には、ホームシック・ヴァージョンなるものも収録されていた。
こちらは申し訳程度に一部シンセの音が入ってはいるものの、基本的にはアコースティック・ギターによる弾き語りである。

しかも、テンポは大幅にスロー・ダウンされている。歌声も、完全に陽性だった原曲に対し、昭和のフォークシンガーが四畳半のアパートで歌っているかのようなしんみり具合だ。あきらめたとして、その先に受け皿が無かった場合、あきらめるということは即ち、生きることすらも止めなければならないのではないだろうか。そんなふうにすら思わされる、まさに岡村靖幸という人間の陰と陽が露わなったような出来である。

そんな2つの曲を同時に制作、発表するということは、岡村さんが自らの楽曲をどれだけ客観視できているかが表れていると言えるだろう。

そしてアルバムのクライマックスである、8曲目の“ステップUP”。サンバを想わせる打ち込みから一転、岡村さんのシャウトを合図に一斉に生楽器の演奏が始まる。ギターとホーンが絡み合うように高まっていく様はあまりにスリリングだ。

岡村さんの楽曲の中でも、歌、演奏ともに最もハイ・テンションなものだ。歌が終わった後の、自分の声の再生速度を変えて同時に流すというアイデアはどこから出てきたのだろう。間奏も最高にかっこいいしなあ。そして高揚感を誘った後には、どこか切なげなピアノの音から始まる“ペンション”がある。

高校生の男女が、ペンションに食事をしに行くという、他愛のない、だからこそ印象的な曲だ。女の子が「リボン」と呼ばれているところをみると、“友人のふり”と同一の登場人物なのだろうか。途中の、最終バスに間に合わないというトラブルを歌うラインが、2人のその後を暗示しているような気がしてしまうのだけど、とにかくこの曲もアウトロのソウルフルな歌声が絶妙な残り香を醸し出す。

そして音が止まると、一抹の寂しさを覚え、また“どぉなっちゃってんだよ”から再生して安心するということを、その日の内に何度か繰り返した。曲の主人公たちとともに、何度も何度も岡村さんの掌の上で転がされまくった。

『早熟』『家庭教師』この2枚を聴くことで、もう岡村さんの全てを知りたいと、そう思った。


『家庭教師』岡村靖幸


『岡村ちゃん大百科』岡村靖幸

(初出:2011年9月12日)

お金の限界が見えつつある世界で。または文化の時代について

「金が正義」という経済の時代の終わりが本格的に見えてきたことによって、ビジネスや広告を主軸に働く人でさえも、「文化の時代」を意識し始めた。 文化とは“人の心の集積”である。「人の心」とは、愛、美意識、信念、矜持、

志村正彦を愛した皆様へ

あれから5年が経った。記憶を整理するのに5年という月日はきりがよくてちょうどいい。 僕にとってもそれは、悲しみを、悲しみとして告白できるくらいにしてくれる時間であった。 正直に言うと毎年この季節になると、志村について

185,000字で書く、andymoriのすべて(1/6)

アンディモリの原稿を書かせてもらうことにした。 もともと、アンディモリについてはいつか書きたいと思ってはいたのだ。けれど、彼らの作品に触れたことがある人には分かってもらえると思うが、彼らの楽曲はあまりに難解で複雑だ。