最高傑作『宇宙の果てはこの目の前に』|185,000字andymoriレビュー(6/6)

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田中元 twitter.com/genmogura

『宇宙の果てはこの目の前に』

13年6月26日発表。

はじめに、このアルバムの発売前後の経緯について軽く触れておく。まず13年の5月27日に、アルバムの発売告知と、9月に行われる武道館ライブをもってバンドが解散することが同時に発表された。僕は正直、合法ハーブ事件の段階で、バンドの先行きの怪しさを感じていたのだけれど、実際に解散なんて話になると気が気でなくなってしまったのをよく覚えている。同日、“宇宙の果てはこの目の前に”のPVもアップロードされており、それを聴いてみたところ、前二作でのなんだかなぁ具合はかなり払しょくされているのを感じた。詳しくは曲のメモの項で書く。

しかしなんというか、このアルバムを発売してからすぐに買うのは「一度振られた相手にまだ未練があり、電話を掛けてしまうようなもの」という気分だった。なのでアルバムが出てすぐには買わなかった。あと、僕の誕生日は6月25日。アルバムの発売日は26日なわけで、早売りをするところではちょうど僕のバースデーなわけで、その辺りに奇妙な縁を感じてしまったということもある。あと、田中宗一郎さんが書いたSyrup16gのラストアルバムのレビューのスタンスを真似たかったということも、理由の一つ。どこかアンディモリと被って見える部分もあると思うし、一つのバンドの最後のアルバムのレビューとしても最高すぎるから引用しておく。ちなみに田中さんはシロップのことをかなり推しており、シロップのソングライターである五十嵐さんも田中さんには多大な信頼を置いていた。そういう関係性があったうえで書かれた文章だということを先に書いておく。(田中さんの引用ばかりで申し訳ない……)

常に敗者と弱者の側に立ち、安易に勝つことを決して選ぶこともなく、結局、見事に報われなかったバンドのラスト・アルバム。中身はどの曲もこれまで通りのシロップ節であり、その完成系だ。サイケデリックな轟音ギターによるシューゲイザー的なウォール・オブ・サウンドに、90年代インディ/ダンス的なグルーヴィなベースと跳ねる太鼓。世界に対する攻撃的な不満や怒りで溢れていながら、声や言葉や演奏には倦怠感や諦めがこびりついていて、自嘲的なユーモアを付け加えることも忘れない。誰かを思うやさしさを歌っても、必ずそれを形にできないという罪悪感が零れ出し、最終的にはすべてが自嘲に集約されていく。たとえ誠意と純愛の音楽に掻き消されてしまおうが、必要不可欠なバンドだった。にしても、これがスワン・ソングになることをどこか意識しただろうリリックに、ムカつく。そのナルシシズムにムカつく。そうわかっていても、心が動くのが余計にムカつく。とにかく“さくら”、最悪。だからこそ、3月1日の解散ライヴには、別れの儀式を期待して集まった観客全員の気持ちをすべて踏みにじるような最悪なパフォーマンスを期待したい。ただ、両親の死に目にも恋人の死に目にも会えなかった人間としては、武道館に行くつもりは毛頭ないので、俺はここでさよならだ。勝手に死んでろ。

この「勝手に死んでろ」というスタンスが本当にかっこよかったわけだ(今にして思うと恐ろしいほど不謹慎な偶然だが)。それに武道館がラストライブだというのも、シロップとアンディモリは一緒だし。そんな妙な意識を持ちながらアルバムの発売日は過ぎ、10日ほどが経とうとした頃に、ニュースが入ってくる。

7月4日に小山田さんが、橋の上から川に飛び降りて大けがを負う。幸いなことに命の別状はなかったが、会話ができる状態ではなく、完治には数か月から一年の時間を要するとのことだった。夏に予定されていた解散ツアーは、無期延期ということになった。バンドの公式アナウンスとして、「精神不安定による行動と思われる」というようなことも、同時に発表されていた。

衝撃だった。と共に、後悔に襲われた。なぜ『宇宙の果てはこの目の前に』を発売日に買わなかったのか、と。この出来事が起きたことで、もう、これからアルバムを聴く時には、小山田さんが「死にたくなるくらいの何か」を込めたアルバムとしてしか捉えられなくなってしまったのである。発売日に買い、聴いていた人たちだけが、純粋な一枚のアルバムとして聴くことが許されていたのだ。というわけで、これから書いていく文章も、あくまでこの騒動を知った後で聴いた感想でしかない。

その後、7月末には小山田さんも退院し、回復を待って解散ツアーが行われることがアナウンスされたことで、ライブが行われないままに解散という事態は免れる。その後の経過については、くいしんさんとしゃべった内容を文字に起こしたエントリがあるので、そちらを参照してほしい。好きなアーティストが、リアルタイムでこういう事態になるということはこれまであまりなかったので、ただただ驚いた。

また、作品とは直接関係はないことだが、僕が今でも心に引っかかっている出来事があるので、少しだけ書かせてほしい。自殺未遂騒動以降は更新されていないものの、小山田さんは一時期ツイッターをよく使っていた。13年の6月18日に、小山田さんが「ヘイトスピーチなんて。国とか民族をまるごと嫌うような人たちとは仲良くなれないな。素敵な人は素敵。嫌なやつは嫌なやつだよ。」というツイートをした。そしてそのつぶやきに対して「韓国人のことですね。わかります。」という返信をした人物がいるのだ。それに対して、小山田さんは「人間のことだよ。」と返していた。このやりとりをした人物に関しては、この文章を書いている14年11月現在は国内政治に関することを主にツイートしているので、アンディモリのファンであるかどうかはわからない。小山田さんの弟さんは韓国で暮らしており、アンディモリの韓国ライブの時には“投げキッスをあげるよ”の韓国語訳を書いてくれたりしていた。そして小山田さん自身にも、韓国人の友だちがいるというくらいなので、言うまでもなく韓国嫌いではないのだ。小山田さんに返信した人物も、小山田さんのツイートを読んで「これは韓国人のことを言っているんだな。同志だ」と思ってこのようなことを言ったのかどうかはわからない。もしかすると小山田さんが韓国に対して好意的だから、煽ってやろうと思ったのかもしれないし。彼の真意はわからないが、僕が言いたいのは、こういう「自分の想いとはずれた形で、人に言葉が届く」という小山田さんが数多してきたであろう経験の、良い例であるということ。ここまで極端な事例はほとんどないだろうけれど、こうして、受け入れがたいリアクションが無数に返ってくるのがクリエイターというものなのである。

これまでのエントリで何度も書いてきたことではあるのだが、ここであらためて、「アーティストが受けるリスナーからの圧力」について触れておきたい。たとえば、レディオヘッドのトム・ヨークの場合、バンドがメジャーデビュー当初に発表した“クリープ”を、ある時点から歌わなくなった。しかし今でもファンたちは、この曲が歌われることを心待ちにしており、バンドが03年のサマーソニックでこの曲を披露した時には、大歓声を持って迎えられた。そのことについて、田中宗一郎さんが書いた文を紹介する。「初期のライブに接したことのない若いファンは仕方ないとは思うけども、東京会場でのみ“クリープ”を演ったことに、ことあら大げさな意味を持たないでいてくれればと願う。ここ数年、彼らはかつて誰かに奪われてしまったものを、少しずつその手に取り戻しつつある。だからこそ、あんなにも拒んでいたはずの過去のナンバーを、あんなにデタラメな演奏ながら、少しずつ楽しみ始めているはずなのだ。」また、オアシスのノエル・ギャラガーは、バンドの代表曲の一つ“ワンダー・ウォール”について質問されると、いつも決まって「メディアによって俺から奪われた」と答えるらしい。どちらも、恋愛に対する、かなりパーソナルな想いをつづった曲であると思われる。そしてまた、“クリープ”は1stアルバムに収録され、“ワンダー・ウォール”はメジャーデビューから一年半後にリリースされた曲。つまりどちらも、まだ作家自身が作品を世に送り出すことについて、その本質を知るには時間が足りなかったと言える。良くも悪くも、創作というものは、作り手が一方的に発信するものではなく、メディアや評論家やファンたちのリアクションや、または作品に触れてもいないのに罵声だけ浴びせてくる人や、作品に興味を持ってくれない人たちトム・ヨークが抱えた感情というのは、この曲が彼らをスターダムに押し上げたという事実も一因ではあるはずだ。なにせ楽曲が、とてつもなく感情的な叫びをあげる部分があるのだが、彼の声がとにかくすごい。そこが、他のバンドには真似することができないポイントであり、今風に言えば「エモっぽさ」としてファンからは受け入れられた。自分たちはずっと5人でバンド活動を続けてきたのに、自分のボーカルに対しての評価だけがヒートアップしていった。彼は徐々に嫌気がさし、その美声をあまり披露することがなくなっていったという。そして行き着いた先が、『KID A』の、感情表現の極北に位置するような音楽であり、ボーカリゼーションだったのではないか、という。オアシスの場合、ソングライターであるノエルではなく、弟のリアムにボーカルを任せてしまったというのが、上記したような感覚になる原因なのかもしれない。自分たちが、純で真っ直ぐな想いを乗せた曲が、メディアの手に渡り、ファンの手に渡り、自分だけのものではなくなってしまう。それはいい方向に働くこともあるし、そうでない場合もある。いくつかの代表曲を早い段階で演奏しなくなってしまったことを考えると、アンディモリの場合、悪い方向へと進んで行ってしまったのではないかと思ってしまう。

ついでに。小山田さんは7月1日に「スピッツの空も飛べるはず ああ名曲!」というツイートをしている。すでに飛び降りたい願望が膨れ上がっていたことから、こういう意味深なことをつぶやいたのか、この曲を聴いたから空を飛びたくなったのか。おそらく前者ではないかと思う。

とまぁ、アルバムに関する周辺の情報はこの辺りにして、各楽曲の考察メモに入っていく。

いろいろと曰く付きのアルバムとなってしまったが、『ファンファーレと熱狂』と並ぶ最高傑作。佳作『革命』、凡作『光』と、ここまでクオリティを落としていたアンディモリだが、小山田壮平の才能は死んではいなかった。マイ・スウィート・ドラッギー・プリンス……。

まず、岡山さんのドラムの音が変わったことに気付くだろう。これまでキックは「ドッ」、スネアは「パコン」という短い音で鳴らされることが多かったが、今作では楽曲によって的確な調音がされているように思う。テクニック云々ではなく、音響から違う。そしてこれまでのガレージ・バンドであることに対するこだわりが嘘のように、各楽曲でバラエティに富んだサウンドを鳴らされている。シンセサイザーやメロトロン、チェレスタなどは効果的に使われている。しかし、アルバムのハイライトには、3ピース構成の極めてミニマルな楽曲を配置しているという辺りに、小山田さんは本当に周到な計算を巡らせていることがわかる。アルバム全体を俯瞰で見て、トータルで設計していくということができる日本のミュージシャンってあまり多くはないと思う。

01.“トワイライトシティー”

だいぶ昔から存在している楽曲らしい。当初のバージョンからアレンジや歌詞がどれだけ変わっているのかは分からないが、こうしてラストアルバムの冒頭に配置されていると、なんだか深読みできるワードがいくつも存在していることに驚かされる。楽曲のタイトルでもあり、曲中でも何度も歌われる「トワイライト」という言葉は、黄昏を表す言葉。朝になるときと陽が暮れていくときの「薄明り」も意味するので、これまでアンディモリが幾たびにもわたり歌ってきた太陽≒日本の暗喩の流れでもある。それにしても、この、夕暮れどきという時間帯に日本の現状を重ね合わせるという手法を、バンド最初期の楽曲で行っているというのは、かなり興味深いことだと思う。この曲を発端として、その手法を生み出したということなのかもしれない。

「忘れてしまうこと」については“サンライズ&サンセット”などでも言及されたことだが、このアルバムではさらに強調して歌われる。“光”においてあらゆる物質は形を留めてはいられないこと、そして、「人の感情」もどんどん形を変えていくということをはっきりと歌った。ザゼンボーイズの向井秀徳さんは諸行無常という言葉を何度も何度も歌っていて、「歌いたいことはもうこれしかない」とまで言った。変わっていってしまう感情を、歌にして残すということにどれだけの価値があるのだろうか、という感覚は、小山田さんには常に付きまとっていたようだ。

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この終末的な感覚の表現ときたら、ラストアルバムの冒頭としては、なんとインパクトの強いことか。小山田さんの心の中では、常に光と影とが葛藤し続けてきたのだろう。二つの相対する性質がせめぎ合っているという構図は、アンディモリの楽曲の中では多く描かれてきたが、このアルバムではとくに強調されているように思う。熱と無表情、夢と現実、光と闇。そしてそれらを包み込む宇宙。動かないとは、運動を止めてしまったということ。何もかも全てが動かないという状態は、僕らが住む世界では起こらないこと(あれ、起こるかも……)。そんな状態が起こるトワイライトとはなんなのか……。次曲“宇宙の果てはこの目の前に”とあわせて考えると、宇宙が終わってしまうという状態を思わせる。

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ここの部分が、何度聴いても、意味を理解できない……。あの子とは誰のことを指しているのだろう。お姉さんのことかと思う時もあるのだけど、お姉さんが「イカれた」と言われるような人だったという情報は僕にはない。「逝かれた」ということかと思ったけど、そうでもなさそうだし……。「おかしい」と世間一般からなじられている人から見たら、いわゆる「世間」のほうがよっぽどおかしいのだということ?わからん……。小山田さんが愛聴しているというフィッシュマンズの代表曲“イカれたベイビー”なのか?

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このアルバムの中でも何度か言及されるけれど、小山田さんの歌う「あの街」とは、だいたいにおいて、ありのままの笑顔になれる場所、心の休まる場所であったりすることが多い。実際に福岡の故郷のことなのかもしれないし、ややこしいアイデンティティーなどを抱え込まずにいられた幼少の頃のことなのかもしれない。代表曲である“シティライツ”では、「あの街まで行け」と力強く歌われたりもした。しかしここで、その街を忘れると歌う。もちろんラストアルバムの一曲目にこんな言葉を置くこと自体、皮肉に他ならない。みんなアンディモリのことを忘れていくだろうということ。かつて、アンディモリの音楽を愛してくれた人たちが、自分たちのことを忘れていくということを歌っているのだ。

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あらゆる物質についての真理。ここで歌われることも、やはり、アイデンティティーを捨てろということに他ならない。我々の持ちうるあらゆる感情というものは結局のところ、自我に根差した価値観でしかないのだということだ。ある意味では、お姉さんの死を乗り越えようとしていた小山田さんが、自分自身の心を納得させようとして生み出した言葉なのではないかと思う。そしてまた、日本が没落していくことについての示唆でもある。我々日本人が持つ富が痩せ衰えていくことは、また同時に、途上国に資本が流入していくことでもある。金は消えない。これまで貧困階級にいた人々の元へ流れ込んでいくだけで、健全に流動していっているのだ。

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これもまた上のラインと同じく、「自分自身には履行することができないこと」をメッセージにしたのだと思う。ここまで、「深い意味」だらけの楽曲を作ってきておいて、こんなことを言うというあたり、皮肉でしかない。本当なら、深い意味など考えないで、笑って日々を過ごしていればいいのだ。本当はそう思っているのだろう。しかし、小山田さんには、そんなことはできない。自分自身のアイデンティティーの複雑さに誰よりも悩まされているのに、それを捨てることができない自分へのメッセージだ。

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愛というものが何なのかわからないといったモチーフは、このアルバムの中で何度か語られることになる。「ほんとだよ」という言葉が、かえって空々しいというか……。本当なら、「愛してるなんて まさか言わないぜ」と思っているはずだろう。口でなら何とでも言えてしまうわけで、ましてや小山田さんのように詩学にも長けている人であれば、人を喜ばせる言葉なんていくらでも思いつけるはず。「アイラビューベイビー」みたいな、薄っぺらい言葉などではなく。一緒にいる時間に、自分の取る行動で「愛している」ということを示すことができていないのなら、意味なんてないではないか。というメッセージが込められていると思う。

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歌詞とは関係ないのだけれど、この「連れて行く」の「行く」という部分。「うぅぅーーーー」っていう、突き抜けていくコーラスがめちゃくちゃ良いですよね。アンディモリのコーラスワークって本当に優秀というか……小山田さんほど綺麗な声だったら、一人多重コーラスとか、いっぱい使われていてもおかしくはないと思う。けれど、あくまで、バンドメンバーとのコーラスにこだわるという。ソロになって、一人多重コーラスが使われるようになってしまったら、なんだか聴いていてとても寂しくなってしまいそうだな。

02.“宇宙の果てはこの目の前に”

「この曲ができたから、解散に踏み切った」というようなことを小山田さんが語っている。小山田さんの考えていることが、小山田さんの納得のいく形で表現することができたということだろう。ある意味、境地に達したとでも言えるような。その後、自殺を試みることを考えると、本当にそこまでのものを作れたということなのではないだろうか。

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小山田さんは様々な形で、子どもの頃を振り返る場面というものを歌ってきたと思うのだが、これなどはある種、その中でも極まったようなラインだと思う。どう考えても小山田さんの頭の中は混とんとしていて、あらゆる問題に対する答えを出すことができていない。小山田さんがこれまで歌にしてきたあらゆる問題は、単純な解決法など存在しない、複雑な事柄ばかりだからだ。小山田さんの関心は、心がけひとつで解決できるようなことには向けられていないのだと思う。もちろん、作者自身の答えを作品の中に用意するよりも、作品に触れた人がそれぞれの答えを出そうと考えさせることが目的であったのかもしれない。(後々まで語り継がれる作品というのは、触れた人それぞれに考えさせる要素を持っているものも多いと思うし、それを狙って創作する人というのも多い)そういった、多くの場合大人でも答えを持ち合わせないような疑問を、子どもの頃は無邪気にぶつけることができていたということを歌う。

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あまり関係ないけれど、この「とは言えひとまず」の部分の歌い方が本当に気だるげで、いい。“都会を走る猫”の「とにかくそんなものに」や、“誰にも見つけられない星になれたら”の「ところで」などもそうだったけれど、普通は歌の中にあまり使わないような言葉を入れてくる小山田さん。前者は、聴く人とイメージの共有をしていないのに話を終えているし、後者は曲の歌い出しが話の転換に使われる言葉である。(関係ないけど、10年くらい前から、「ていうか」「ところで」などが、話の切り出しによく使われるようになった気がする)『光』のエントリでも書いたことだが、物語作品において、敢えてすべての情報を与えないというテクニックはよく使われるものだ(広告とかプレゼンでも使われるか)。小山田さんの楽曲でもこういったソングライティングはよく見られるが、これがテクニックとして使われているのか、小山田さんの頭の中がごちゃごちゃ過ぎて整理することができていないのか、どちらなのだろうと思うことがよくある。多分、どちらも理由なのだろうけど……。

旅という言葉も、このアルバムではこれまで以上によく使われていると思う。自分たちのこれまでの活動を意味しているのだろうし、「一つの所に留まることはない≒流動する」ということを旅として表現してもいるのだと思う。それはどこか、ラストアルバムらしいし、自分たちが解散後も旅を続けていくのだというゆるやかな表明でもあると思うし、自分たちをいっときでも好きになってくれたファンたちを送り出そうという態度でもあると思う。

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大人と「呼ばれて」という言葉の選び方をするということは、自分自身としては大人に「成った」という実感は抱いていないということ。成人式なんて、久しぶりに地元の知り合いと顔を合わせる大きな同窓会くらいの意味しかないため、日本には大人として認められるために通過儀礼は実質的に存在していない。また、就職活動をして、社会に出て働き始めることを期に大人になったと実感する人も多いとは思うが、小山田さんは大学を出てそのままバンド活動を続けていた人だ。「大人って何だ」という思春期的な問いかけや、「大人は汚ねぇ」という青さの極まったような台詞を言うことはないけれど、小山田さんはどこかぼんやりと、自分という存在の曖昧さに想いを馳せているようだ。

振出しに戻るっていう言葉の意味が、あんまり、よくわからない……。「虹色の船に乗って」から始まる言葉の流れが続いているとしたら、旅路が振出し地点まで戻されてしまったという意味なのだろうか……。上で触れた自分が大人だという実感が希薄であるという流れにそって考えるなら、自分がモラトリアムから抜けきっていなかったことに気付いたという解釈もできる。詳しくはそれぞれのアルバムの考察メモで書いたことだが、小山田さんは1stアルバムにおいて濃厚なモラトリアム性を含んだ楽曲を多く書いた。モラトリアムとは決断の留保期間であり、自分が進むべき道をまだ見定めている段階であり、「何かを捨てる」ことを迫られない時間のことだ。しかし3rdアルバムにおいて、そういったモラトリアム的な表現は格段に減り、歌詞もストレートな言葉でつづられるものが増えた。そういったソングライティングの変化について、小山田さんは「どっちつかずでボヤッとしてる時間も、嘘ついてる時間もないって思うようになった」と答えたほどだった。そして4thでは楽曲はさらにストレートになり、楽曲も明るいものばかりになっていた。それまでのアンディモリの楽曲の中にあった、どこかぬぐいきれない怒りや悲しみなどは、ほとんどなくなっていた(表面上は)。しかし、このアルバムでは、それらの流れの反動なのだろう、鳴りを潜めていた政治的メッセージは噴出し、やりきれない感情がほとばしり、胸を押しつぶすような苦しみに小山田さんは血のにじむような叫びをあげることになった。これが「振出しに戻る」ということを指しているのだろうか。バンド初期の頃の楽曲を、今また使うことになったということも含めて、振出しに戻ってしまったという意味合いだ。……長々と書いたけど、あまり自信がない。

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多分、「宇宙の果てはこの目の前に」という言葉を正確に理解できる人はいないんじゃないかと思う。小山田さん自身もたぶん、この言葉で、何か特定の事象を意味させようとはしていないのではないだろうか。“サワズディークラップユアハンズ”で「おおいぬ座VY」という言葉もあったように、小山田さんはけっこう宇宙好きであるもよう。そういったストレートな解釈をするのであれば、このラインが意味するのは、我々の住む地球を含む宇宙の終焉ではないだろうか。一説では、現在膨張を続ける宇宙は、いつか縮小を始めるらしい。そして収縮しきってから、また膨張に転じるのではないかと言われているらしい。(あくまで一説)また、「おおいぬ座VY」という恒星も、今から1200年以内に超新星爆発を起こしてブラックホールと化すという説もある。宇宙の果てというのはブラックホールのことを言っているのかな……?

Jポップやロックの常套句だし、おそらく今夜もどこかで男が口説き文句として使っているだろう、「お前のことは俺が一番よく分かってるよ」「俺がお前を守るよ」。誰もが気軽に口に出し、その言葉の意味を正確に吟味することなど無くなっている。だが、小山田さんは、「普通の人が普通にしていること」「普通に言葉にしていること」に対して、疑問を感じることが多いのだと思う。日本人は「空気」に縛られる生き物だというが、良い意味で空気を読めない人なのだろう。相手に一時だけの安心感を与えるために人々が口にする言葉を、小山田さんは絶対に言えない。みんなきっと、「分かるよ」という言葉を使う時に、きっとそんなに深く考えてない。(「好きな男性のタイプは?」と聞かれて、「守ってくれる人です」と答えた女性に対して、松本人志さんが「あなたは誰かに命を狙われているんですか?」と茶化したエピソードを思い出す)

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この、鏡に映る自分に問いかけをするという場面も、このアルバムでは何度も出てくる。言うまでもなく、自分自身と向き合うことを意味している。『革命』『光』に対して否定的な考えを持っている僕から言わせてもらうと、特に前作における、躁的な振り切り方に対して、自分自身が実感を持つことができていないことを意味するラインではないかと思う。また、「大人と呼ばれて」というラインと合わせて考えてみると、自分の思う自分と、人から見られている自分とが、大きくかい離してしまっているという状態だろう。

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このラインは全然意味が分からない……。しかし「愛しているよ」という言葉は、小山田さんが使いたがらない言葉だ。その辺りの理由なんかは説明できないものがあるが、「愛してるなんて まさか言わないぜ」と歌っていたこともあるし、砂に書いた文字も石に刻んだ名前も自然がかき消していくということも歌った。前者では言葉にしてしまうことの野暮ったさや胡散臭さを避けたがり、後者ではどれだけ強い想いでもどんどん消え去っていくのだということを歌っているわけで……。主人公が「君」に別れを告げたというラインなのか?それとも、宇宙の終わりが来てしまったことにより「君」は悲しんでいるのか。そして走馬灯で、君とセピア色の部屋にいたときのことを思い出しているのだろうか。わからん。セピア色の部屋ってなんですか。ラブホテルのそういう部屋ですか。わけがわからん。

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ここのところ、前半部分は、小山田さんが自分のことを素直に歌っていると取っていいのだろう。繰り返し書いてきたが、小山田さんは今の日本が斜陽に差し掛かったと見ていて、落ちていく太陽≒日本という暗喩を何度も使ってきた。そんな夕暮れ時の日本で、ギター鳴らして叫び続けてきたという話だ。「ここにいるよ」と叫んでいるということはつまり、自分と似たような環境にいる人、価値観を持っている人を探すために声をあげていたということなのだろう。(果たして、小山田さんは、「自分と似ている人」に出会えたのだろうか?)

「相手に触れる」という動作については、光にも出てきた。それにしても、どこか分かりあえない部分のある「君」に、触れたいと願う主人公という構図も光と似ている。そして、「君」は、どこか言葉によるコミュニケーションを過信しているようなフシがあるというところも。それくらいしか書くことを思いつけません……。

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ここで歌われる内容の終末的なニュアンスの強さを考えると、やはりこの楽曲は、本当の意味での宇宙の終焉を歌っているのかもしれない。やっとの思いでたどり着いた「この街」は滅んでしまうし、紡ぎ出したメロディーは弾けて消えてしまう。ラストアルバムの表題曲として、こんな、「全てが終わってしまうこと」を描いたスワンソングを残してしまう。なんというか、小山田さんは本当に、バンドの遍歴や自分の人生を、劇的に描こうとするところがある人だなぁと思う。

ちなみにラストライブでは、曲の最後に、もう一度コーラスが繰り返された。“1984”の構成を思い出してもらえると分かり易いと思うが、音程を一つ高める転調がなされていたのだ。個人的には、ラストライブで一番良かったリアレンジだ。あの曲が、セットリストの最後だったら良かったのにって思う。

03.“MONEY MONEY MONEY”

アルバムでは最もアグレッシヴな曲。好き放題ノイズをまき散らしている。しかしどこか、「ウルサイ曲」に対してセルフパロディ的というか、なんかヤケクソ感がものすごく出ている気がする。もはや1stや2ndの頃の疾走感を出そうとしても新鮮さは無いということを理解して、このようなやけっぱちなアレンジになっているのだと思う。(個人的には好きな楽曲なのは間違いないのだけど)それにしても歌われるテーマが本当に、シニカルだけれど、斜に構えているわけではなく、とにかく言葉の切れ味が凄まじい。そしてやはり、他のメッセージ先行型バンドたちとの違いは、自分が発した言葉が自分をも傷つけうるものだということを理解しきっているというところだ。

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日本人は、肩書抜きに自分のことを語ることができない特殊な国民性があるとよく言われる。ていうか宮台真司さんがよく書いていた。「あなたは誰ですか?」と聞かれると、日本人はまず会社の名前や仕事の種類から答えるのだという。だから定年で仕事を退職してしまうと、男性の場合は、何をしたらいいのかわからなくなってしまうのだという。老人の孤独死の多くは男性らしいですよ。これは極端な例ではあるけれど、自分が何のために仕事をしているのか、あまり実感を持たないまま生きている人がとても多い国なのではないかと思う。まぁ、こういった自己同一性については、考えていっても終着点がない問題だ。前の曲に、

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という言葉があったことを考えると、ほかならぬ小山田さん自身が、外に出るときにヨロイを着ていたということではないだろうか。

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惨めな日々、というのが、実際には何を歌っているのか、少し理解しづらいところではある。それは、多くの人の感情移入を誘うためにあえて抽象的な言葉にとどめられているという面が強いとは思うのだけれど。しかし、ここは資本主義社会への揶揄という面は含まれていると思う。「生活のために必要なお金」よりもさらに多くのお金を稼ぐということは、資本主義社会の犬となるという側面を含む。また、「太陽」という言葉は使われていないものの、ここは今の「日本」についてのラインでもあると思う。惨めな日々とは、戦時中から敗戦後の、混乱した社会のことを指している。そして「犬」は“ビューティフルセレブリティー”で

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というふうに使われていた言葉だ。ここに出てくる「セレブリティー」はアメリカの暗喩だったので、ここで歌われているのが日本そのものだというのはかなり濃厚な線ではないかと思う。

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このラインなのだけど、僕にはどうも、この曲そのものを表しているような気がする。演奏のスピード上げてるし、ギターがぎゃんぎゃん大きな音を出しているし、ボーカルはとても凄んでいるし。それを満たされないと歌っているのだとしたら、やっぱりとんでもない食わせ物というか、自分に言葉を突き刺していくドMというか……。小山田さんの中には、常に自分の心を責めるもう一人の自分がいるんだろうな、と思う。自分に対して否定的な気持ちがないなら、そもそもアンディモリみたいなバンドにはなっていないはずだし。

また、これまでアメリカにまつわる楽曲において、「ジェットコースター」「ローラーコースター」というスピードの速い乗り物が取り上げられていた。それにこの曲は、アンディモリにしてはかなり珍しく、純粋な英語によるサビになっているため、かなり「アメリカ」が意識されているようにも思える。アメリカが本格的な改革の時代を迎える前、その最後の時代の大統領であったブッシュジュニア。彼をイラクやアフガンに対する強硬的な政策に駆り立てたのは、政治家の家系において落ちこぼれ扱いされてきた劣等感だったのではないかと言われている。そんなみじめな男についてのラインだと捉えれば納得がいくのだが、どうだろう。

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これまで、人に対する愛を歌うことなどなかった小山田さんが、クリシェとしか言えない愛の言葉を叫ぶ。金に向かって。とても強い皮肉が込められた楽曲である。また、アイウォンチュー、アイニージュー、アイラービューという言葉が並んでいると、どこかAKB48の“ヘビーローテーション”を思い起こさないだろうか。小山田さんが、あの団体に対する揶揄としてこの曲を作っているかどうかは分からないが、ファンでない人間から見ると、ああいった存在はとんでもなく荒稼ぎをしているような印象を覚えてしまう。CDにメンバーとの握手拳を同封したり、一つの作品に異なる様々な特典を同梱することで一人のファンに何枚も買わせる商法を採るあのグループである。諸外国と比べて日本では音楽作品の売り上げの割合が、ダウンロードではなくCDの方が圧倒的に多いという事実がある。しかしそれは日本人の国民性などという話ではなく、こういう特典ありきのやり方でしぶとく生き残ろうとするレコード会社が存在しているからにすぎないのだ。

04.“ネバーランド”

モロに“モンゴロイドブルース”のアレンジである。わざわざドラムで拍子をとるところまで被せているあたり、意識的とかそんなレベルではなくって、バンド内で「モンゴロイドブルースでいこう」というやりとりが交わされていたとしか考えられない。それにしても、これまでモラトリアム性の強い歌詞を書いたり、時間が流れていくことの無情さを歌っていた小山田さんが楽曲のタイトルに永遠に子どものままでいられる国の名を持ってくるのは本当にうまいと思う。

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他の楽曲のメモでも書いたことだけれど、これはいくらなんでも自嘲が強すぎるだろう。言うまでもなく、過去の楽曲とアレンジが被りまくってしまっていることの暗喩である。それにしても「錆びたジュークボックス」なんていう言葉の精度の高さときたら、舌を巻くしかない。こういう、全てをかなぐり捨ててしまうような曲は、そりゃあラストアルバムじゃないと収録できないよなぁと思う。むしろ、こんな曲を入れておいて、次のアルバムを平然と作ることができただろうかと考えてみると、相当難しいだろう。まぁ、一度「解散」の宣言をして、スラムダンクの三井ばりに「アンディモリが……したいです……」なんていう流れになってもよかったのではないかと思うのだが……。『革命』『光』と、何かを傷つける表現を避けてきた反動がこのアルバムには込められていると思うが、自嘲具合も半端ではない。アルバムのハイライトであり、小山田さんが上京してきたばかりの頃に詩を書いたという“teen’s”でも見られるように、小山田さんが何かを批判的に語るときは、同じだけの圧力で自分自身を責めているのだ。前回のメモでもちらりと書いたけれど、00年代の漫画やロックバンドなどのサブカルチャーは、他の文化(たとえばオタクやヤンキー、もしくはオヤジ、宗教)などを攻撃する表現が本当に多かったと思う。で、自分と近い価値観を持つ者をなぐさめ、尊ぶような描写が強調されていて、とても嫌だったんです……。で、そんな風潮に嫌気がさしていたので、僕はアンディモリが好きなのだ。それはエヴァンゲリオンや、アメリカのアニメ『ザ・シンプソンズ』のように、「自分も含めて全員バカ」であるということを描いているのだ。

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今じゃ誰も望まないというのは、かつては望まれていたということ。見えない敵ってなんだろう……これまで小山田さんが多用していた表現から考えると、「風」という言葉などが使われていてもおかしくはなさそうだけれど……。「無表情」という言葉は、“楽園”における「無表情のピーターパン」からの流れであるとは思うのだが。結局、あれだけ熱く熱く「あの街へ行け」と叫んでいたものの、結局「あの街」も、いつまでも平穏ではないということなのだろう。人は変わる。誰か一人が変われば、その一人にかかわる人も変わる。人が変われば街も変わる。そうして、誰かが、かつて焦がれた「あの街」を去ってゆく。アルバムの冒頭で歌われたように、人はどんな時でも流動し続けるというのがあるべき姿なのだ(それでも、タダいっときであったとしてもそばに誰かがいたという事実は、とても心強いことだと思う)。「今じゃ誰も望まない」という言葉には、いろいろと騒動を起こしてしまった自分を待っていてくれる人なんていないだろうという気持ちも込められているのではないだろうか。

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約束を交わした相手とは、亡くなった人たちなのか、それとも後藤さんや藤原さんや岡山さんらメンバーなのか、それとも恋人なのか……相手が気になってしまう。やたら泣けるということは、それらはもう叶わない約束であり、約束を交わすということは固い信頼の証だったはずで……。

街明かりという言葉を使われると、やはり“シティライツ”を思い浮かべずにはいられないだろう。あの曲がすでに過去の栄光と成り果ててしまったというニュアンスが含まれているような気がして、どこか寂しくもなる。……「年のせいさ」なんていう、普通の人たちが普通に使う言葉を「呟いたりして」と言うあたり、普通を演じることで心から洗い流してしまおうとしているように見える。「それでいいとあきらめた」ということである。

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明日が来る。明日になってもきっと、「明日が来る」という漠然とした思いに転がされていくのだろう。つまり“16”で言うところの「なんでもない日」の「繰り返し」がこれから先もずっと続いていくのだということだ。夢に夢見る、という言葉が意味するのは、誰かが作った創作物≒夢を愛好しすぎることを暗喩してはいないだろうか……。自分で何か一つのことに打ち込むことはせず、誰かが作ったものにロマンスを抱いて妄想を膨らませるだけに留まる状態というか……。大きな理想を抱きにくくなった今の社会そのものを指しているのかもしれないし、「豊かな国」からはどんどん遠ざかって行ってしまうということを指しているのかもしれない。

また、このアルバムで繰り返される「宙ぶらりん」な感覚というのが少し気になる。夢を見るのではなく、夢に夢を見るということが、まずそうだ。そして他のいくつかの楽曲では、熱くもなく冷めてもいない「微熱」であるということ、眠りから目が覚めきっていないという状態も歌われる。これも、とても中途半端だ。これは、「自分が作った歌に込めた社会問題などを、みんなにグーグルで調べたりしてほしい」と語っていた小山田さんの、その夢が破れてしまったという事実がまず根底にあるのではないかと思う。そして『光』のような、自分たちの日常生活をリプレゼントすることを創作の目的とする、凡百な日本のロックバンドたちの中になじむような作品を作ったものの、物足りなさを感じてしまう。小山田さんは「そのアイデンティティー」を捨てきることができなかった。しかしまた、社会問題について声をあげて歌っても、結局誰にも届かないという敗北感を味わうだけ……。そういった、立ち行かなくなってしまった感情が、このアルバムの中にある「曖昧な状態」には表れているのではないかと思う。

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“ベースマン”では藤原さんと一緒に星を見つけたと歌っていたが、ここではもう、空を見上げる人は、主人公≒小山田さんたった一人になってしまっているようだ。けど、星は見つかるって歌っているんだよなぁ……。「星」という言葉の解釈が、本当に全然わかりません……。

後に、橋の上から「飛ぶ」ことを考えると、小山田さん自身がピーターパンのようじゃないか、と思う。この曲の言葉を分解してみると、小山田さん自身、自分をピーターパンになぞらえて歌っていたような節があることに気付く(と思っていたら、この文章を書いているときに参考のために観たPVで、小山田さんが、まんまピーターパンの衣装を着ていた……)。

05.“ネオンライト”

オルゴールを模したようなメロトロンの音色から始まる楽曲。新機軸というか、寄る辺なき悲しみのような楽曲はこれまで作られてこなかったように思う。やはり僕の中では前作というのは、無理やり明るい曲をひねり出してぶち込んだアルバムというイメージなのだが、こういった零れ出す悲しみをせき止めることなく表現してくるところなどは、アンディモリの真骨頂であると思うのだ。小山田さんの抱える諦観と混沌の、僕みたいな感性の鈍い人間にも伝わりやすい落としどころというのが「切なさ」になるということなのかなぁ。「この方向性でもうちょっと聴きたい……」とは思うのだけどいざもう一枚こんな感じのアルバムを作ったら、「いや、前作から何の進歩もないじゃん」とかわがままなことを思ってしまいそうでもある。どんなアーティストであっても、泉が枯れ果てるまで掘り続けるよりも、ファンが「もうちょっと聴きたいよ~」と思うあたりで打ち止めにしていくのが吉なのかもしれない。

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楽曲の主人公が置かれている状況は、前の曲と似たようなもので、こちらも毎朝家を出ていくという行動を、自分の強い意志によって行っているわけではないようだ。特に意識もせずに、半ば習慣的に、扉を開けて出て行く。朝日も、「ぼんやり」と地上を照らしている。アンディモリにおいて使われる「朝日」の解釈にいつも迷うのだが……。朝には、日本の暗喩は含まれていないのだろうか。夕日にはどう考えても反映されているのだけれど……。陽が沈んだ後に、また別の価値観などが、ぼんやりながらも出てくるよっていうことなのだろうか。夕焼け空、大好きなあの街を思い出す空。大好きなあの街というのは、日本の経済成長により発展した街だった、ということなのだろうか。かつて「心の安住の地」だったはずの「あの街」が、もはや思い出の中に収まってしまったもよう。……やっぱり、ラストアルバムっぽいなぁ。

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「僕」ではなく「僕ら」と言うことで、みんなオカシイんだぜ、という安心感が生まれると思う。それを歌にすることによって、聴いた人が、「オカシイのって、自分だけではない」という連帯感を覚える。今の日本のロックやポップスの大きな機能として、そういう側面があると思うが、それをたった一言で達成してしまえるソングライターなんて、本当に稀有だ。

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ネオンライトと街の灯り(“シティライツ”)は、似ているようで少し違う。ガス灯の灯りとは違い、科学で作り上げた光は、地上から夜空の星明かりをかき消してしまうほどに強い。それでも星を探し出そうとする旅人とは、きっと、文明社会に少しだけ疲れてしまった人たちのことを指すのではないだろうか。それにしても、いつにもまして「星」を探す場面が頻繁に出てくるアルバムである。

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このラインもまた強烈である。流行りの風邪にうつりにいく。どこかそれは、これまで頻繁に使われた「風」の言いかえのようでもある。風邪は体や心を毒する。流行り乗るということは、人々に隠れて自分の弱いままでいることを許すこと。「みんなと一緒じゃないことが怖い」という強迫観念に駆られて、みんなから風邪をもらってくる。小山田さんは「俺はニュースのこととか考えてるけど、周りに合わせてダウンタウンの話とかしたり」と語っていたことがある。しかしアンディモリのブログで、年末はガキ使を見ると書いてあったこともあるし、多分お笑いとかは、嫌いではないのだと思う。しかし、テレビのバラエティばかりを見ているという状態に不健全さを感じていたのではないだろうか。

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この辺りは、モロにツイッターやSNSの話。2ちゃんねるの黎明期から言われることではあるが、ツイッターの普及によって1億総ジャーナリスト時代と揶揄されることは格段に増えた。情報源が不確かなままに、「自分が一番最初に呟いたのだ」と言いたいがために情報を無責任にツイートしまくる人を見たことがないだろうか。そうして生まれたソース不明のツイートやブログに、嘘や誤認の情報を教え込まれた経験は多かれ少なかれ誰にでもあるはず。ただやはり、このアルバム全体のトーンとして「痛ましいほどの自責」が根底にあり、こういうふうに歌う小山田さん自身が「最近ツイッターにはまっている」というようなことを言っていたくらいなわけで……。かつての自分が見たら「堕落している」と思うであろうことでも、どこか諦めまじりに、人々の群れに合流していくのだ。

06.“路上のフォークシンガー”

アコギと、タンバリンの音だけのシンプルな演奏。しかしサビでコーラスが入ってくるということは、他のメンバーと一緒に録ったのだろうか。それにしても音質がかなり荒々しい。スタジオで録ったものでないことは確かだろう。もしかしたら本当に路上で録っているのかもしれない。

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この楽曲についてはいつごろ作られたものなのかはわからない。しかしまぁ、当たり前のように“都会を走る猫”と同じような情景描写である。特に深い言及はなされないが、「真面目そうなサラリーマン」なんて言葉は、アンディモリの歌では初めて出てきたように思う。深い言及がされていないがゆえに、「犬のように鎖に繋がれてる」という言葉と結び合わせるのは勇み足と言うものだが、とりあえず「路上のフォークシンガー」に興味を持っていないことは確かであろう。それ以下の登場人物も同様である。幸せそうなカップルについても深い言及はないが、これまで「幸せそうな恋人の歌」を書いたことがない小山田さんがこういう言葉を書く辺り、やはり何も意味がないとは思えない。「平和と愛が永遠のテーマ」なうたをうたうフォークシンガーの声になど耳を傾けないカップル。しかし彼と彼女は、「幸せそう」だと形容され、実際に今この瞬間は幸せなのだろう。「アイラビューベイビー」なんて言葉をベッドで囁き合うのではないだろうか。つまり、リア充と、物事を考えすぎなためにリア充にはなれない人との対比ではないだろうか。もちろん、どちらが「正しい」のかなんて、誰にも分らないことなのだろうけど。この時に幸せそうなカップルが無視した社会問題が、のちのち生活を脅かすほどに巨大化していくこともあるわけだから。以前、フジテレビのデモのリーダーが、活動を通じて彼女ができたためデモを引退したことがあるという事例を書いたが、このラインもまた「満ち足りた性愛関係にいる人は、過剰な政治的関心を持ちにくい」という事実について歌っているのかもしれない。また、とぼとぼ帰宅しているとはいえ、少年がいったいなぜ足取りが重いのかについては説明がされない。この楽曲の舞台がいったい何時ごろに当たるのかはわからないが、“1984”の

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の変奏として捉えるならば、まだ遊んでいたいのに、陽が落ちてしまったことや、門限があるというような理由で家に帰らなければならないという状態なのかもしれない。まぁ、これから経済的に没落していく日本に住む人の暗喩なのではないかなぁとは思うのだけど。おもちゃで遊ぶ赤ちゃんとは、没落してゆく日本の暗喩という線で考えると、国の経済力はどんどん弱まっているにもかかわらず、子どもには娯楽が与えられ続けているという状態を歌っているのではないだろうか。「新しい」という言葉が先についていることがポイントで、この子の親は、子どもが楽しむものだけを次から次へと買い与えているのだろう。また、“ライフ・イズ・パーティ”において、「10年たったらおもちゃもマンガも捨ててしまうよ」と、心をなだめつかせるかのように歌っていたことを思い出してほしいのだが、そのうちおもちゃは手放さなければならない時が来る。まぁ、現実的に考えて、赤ちゃんにおもちゃを一つも与えてあげない親と言うのもひどい気がするが……しかしだからこそ「新しい」という言葉と併せて歌われるのだ。つまりこのシーン、現代日本での生活を謳歌している人たちと、あまり今の日本のムードに乗り切れていない人たちとが対比して歌われている。仕事をこなしてお金を稼げればいいと考えるサラリーマン、恋愛を釣り餌にすれば簡単に金を巻き上げることができることを知っているメディアに転がされるカップル、自分の欲望のままにどんどんおもちゃを手に入れることができる赤ちゃんは、今の日本の恩恵を受けているほう(偽悪的な言い方をしているが)。平和と愛のすばらしさを伝えたがる童貞フォークシンガー、自分たちが遊んでいられる時間がもう終わってしまったことになんとなく気付いている少年は、今の日本とは少し外れた感性を持っているほう。もちろん、ここでは極端にデフォルメされた歌われ方をされているだけで、それは“グロリアス軽トラ”の

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というラインのように、一人の人間がそれぞれの属性を少しずつ持ち合わせているのだと表現しているのだと思う。

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他に楽曲における自己嫌悪、自嘲は、まだ他のラインの中に隠されているからそこまで重くはないものの、この曲ではサビがこれである。しかもしつこいくらいに繰り返され、様々な語彙で卑下される。しかし明るい曲なので、それはどこか聴き手にはコミカルに伝わる。こんなに短い曲であっても、いくつもの読み方ができるようになっている辺り、やはり小山田さんは複線的な表現を巧みに使いこなす人なのだなぁと思う。

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おそらくは先ほど公園で歌っていたフォークシンガーが主人公なのだろう。“サワズディークラップユアハンズ”でもそうだったが、こういう、節ごとで視点の切り替えが起こるというやりかたは、他のソングライターはあまりやらない。「電車に乗る」という行為は、“オレンジトレイン”でも描かれていたこと。そういえば、バスという言葉が途中から全然使われなくなって、代わりに電車がよく出てくるようになっているな……理由は分かりません。なんとなく、車での移動は活力があふれているような気がするのだが、電車に乗っている時は楽曲の主人公がいつも気だるげな場面ばかりだ。人々が、互いへの興味を失ってしまった現代の社会の比喩なのだろうか。ただ、このフォークシンガーが、なぜここまで自己嫌悪に駆られているのかという説明はされない。

07.“スパイラル”

昔作った楽曲だと公言されている曲。なんだかへろへろした演奏である。しかし楽曲の後半に進むにつれて楽曲がどんどんビルドアップされていく展開などは、やはり本当にバンドの成長を感じさせる。(こういった構成も、多用されてしまえばクリシェでしかなくなってしまうというのも事実。この辺りの潮時の見極めなどが、小山田さんのクレバーなところかもしれない)

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羽ってなんやねん……天使なの?でも、天使の羽は指の間に持たないよね……。「ばれないよう」とは、「誰にも見つけられない」と同義語ではないだろうか。羽、という言葉についてこれまでの曲と照らし合わせながら考えてみたのだけど、“シティライツ”や“兄弟”で使われた「鳥」には羽がある。しかし鳥からむしり取ったから羽を持っているというわけではなさそう。落ちていったとはつまり、自分が手放すつもりではなかったのに、ふとした時に離れていってしまったということ。人目に触れてしまったということだろうし、「あの街」を目指すために必要なアイテムを失ってしまったということでもあるだろう。

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この曲は、最新作のために作られたものではなく、比較的古くに作られたものらしいのだが、1st以前に作られたということはないんじゃないのかな……。だって、「熱」とか「夢」なんて言葉を、1stの前から仕込んでいたとは、ちょっと考えられない。「熱」という言葉は1stから使われてはいるけれど、それらをもう「夢の中」と、過去の出来事として突き放すような感覚というのは、3rd以降に芽生えたものではないのかと思う。「バンドの初期からの音源から選曲されている」とはいえ、それがデビュー前からのものという限定はされていない。書かれたのが3rd以降であれば、ずっとそばにいるっていったあいつとは、つまり初期ドラマーの後藤さんのことでは?と捉えることができる。それにしても、「泣くなよ」と一見慰めのように思える言葉の後に、さらに悲しい出来事を思い出させるっていうのが、かなり変わっている。まぁ、他のバンドは絶対やらんわね。これから訪れる悲しみに比べれば、今感じていることなんて小さなものだろ?とでも言わんばかり。

最後のライブでは「みんなのために歌います」というMCのあとにこの曲が演奏されたが……。
「泣くなよベイベー」とは、小山田さんが自分自身に向けた言葉ではないか?と思ってしまうのだが……。(何度も言うけど、アーティストは、自分に向けたメッセージを発信してもいいのだ)

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当然ながら、「街の灯」とは“シティライツ”である。この辺りの言葉選びからも、『ファンファーレと熱狂』以前に作られた曲とは考えにくいのだけれど……。次の場所まで飛んでいく、という言葉も、“シティライツ”の変奏の様な気がしてしまう。「飛ぶ」という言葉も

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というふうに歌われていたわけだし。要するに次の場所というのも、安住の地というニュアンスである。「旅」という言葉は使われないが、今いる場所にしがみつこうとしている≒変化を恐れる人に対しての誘いではないだろうか。しかし、「うたた寝しながら」という括弧つきになっている理由がわからない……。うたた寝していようがふて寝していようが、勝手にスパイラル≒落下していってしまうんだから、自分の意志で次の場所まで歩いて(飛んで)行け、という話……?飛んでいこうという誘いから考えるなら、鳥がうたた寝してしまったために落っこちていっている状態を指しているのだろうか。つまり、小山田さんの呼びかけには反応していない鳥なのだろうか。わかんないですすいません……。

「小さな胸」という言葉が気になる。というのも、小山田さんが「麻生久美子の歌を作って」と頼まれて作った“16”、「結局自分の歌になっちゃった」と語っていたことはすでに『ファンファーレと熱狂』の項で書いたことだ。そこでもやはり、「少女たちへのメッセージソング」という体裁になっているのである。「小さな胸」という言葉が、おっぱいのことを意味しているのかどうかはわからないが、そのような受け取り方が自然にできるのも事実だろう。この“スパイラル”もやはり「女の子へ向けている」という体を取っているのだ。小山田さんのフェミニンな部分については、けっこう深く書いていきたい気持ちはあるのだが(だって、メンバーとキスしているところを平気で公共の場に放出するなんて!)、なにぶん資料が全然ない状態である。

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真っ赤に焼けるというのは夕暮れ、つまり日本という国が夜を迎える頃になると、小山田さんの作った楽曲たちは真価を発揮するのだ、という意味合いだと思う。“シティライツ”でも「真っ赤に染まっていく公園で」という言葉で夕暮れ時を表現していたし、やっぱりとてもかかわりの強い曲だと思う。時間が無いと頭を抱える君、とはいったい誰のことだろうか。小山田さんが、20代のうちに自殺しようとしていたのではないかと思うのは僕だけではなだろう(いや、僕だけかもしれない……)。自殺を試みたのが、29歳になってからすぐだったということもあるし。なんだか、小山田さんの楽曲におけるタイムリミットの設定というのは、切実すぎではないかと思えてしまう瞬間がある。特に、『革命』と『光』だ。限られた時間の中で、自分に何ができるのかという切迫した性急感に満ちているというか……。20代でこんなに残りの時間を気にしている人など、他にいないと思う。それが、このアルバムに来て、時間切れになってしまった、全てが終わってしまう……そんな感覚が浮き出てきてはいないだろうか。

ここでの「君の横で歌う」とは、“シンガー”における

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のような、「あなたに寄り添います」「あなたの感情を代弁します」という、リスナーライクな目線とは少し違ったところから歌われているように思う。僕としてはこちらの方が本音に近いのではないか、という気がする。漫画やアニメで、思い悩むキャラクターの頭の横で天使と悪魔が出てくる場面みたいな感じだ。悪魔が欲望に忠実であるようにそそのかし、天使が理性的であれとうそぶくシーンのようなもので、要するに、慰めやその場しのぎの答えなどを与えることはしないという宣言のようなものだ。これまでのアンディモリの楽曲は、どれも、人の背中を後押しする言葉よりも、ゆったりとした諦めを誘う言葉の方が多かったはずだ。そして、何か一つの正当と思われる言葉ではなく、一つの出来事に対してでも多様な価値観に立っていろいろな角度から言葉を発してきた。小山田さんは、リスナーにとってどんな存在であろうとしていたのかを、ここで歌っているのではないだろうか。

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こういう鋭く、かつ誰にでもわかる言い回しをできるというのが本当にすごい。「流行り」という言葉が使われていることからもわかる通り、“ネオンライト”とは姉妹のような曲だろう。同じ事象を、同じアルバムの中で、違った言葉で表現するというのが、やはり天才的だよなぁ……。しかし「聖者」という言葉の使い方は、どこか皮肉的というか、小山田さんは自分のことを聖者だと思っとったんかいみたいな感じがしてしまう。まぁ、結局は、誰しも毒を受け入れながら生きていくしかないということを指しているのだろうか。

少し先の話になるが、二度の解散ライブで披露された“それでも夜は星を連れて”。これまで発表した楽曲の素材をかき集めて、新しい一つの曲を作り上げるという手法は、もはや職人芸の域に達している。息の長いアーティストというのは、やはり多かれ少なかれ、「自分が昔作った作品」の素材を再構築するという創作法を採用するものなのだ。才能のあるアーティストは、自覚的に過去の作品の変奏を用いるようになるか、常に過去の自分とは違うことに挑戦しようとして結果的にどん詰まりにぶち当たってしまうか……と二極化するように思う。北野武さんや宮崎駿さんやジェームズ・キャメロンなどの物語作家は同じモチーフを何度もくり返しているが、小沢健二さん岡村靖幸さんなどの音楽家は自分を更新しようとして行き詰まり、そこから抜け出せずにいるような印象を受ける……。

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「回る」という言葉や、それが「この先もずっと続く」というニュアンスの言葉を配置するところなどは“サンライズ&サンセット”を思わせる。……やっぱり作られたのは2nd以降だよなこれ。喜びも悲しみも、自分が飛んでいく先に、必ずついてくるというニュアンスで歌われているのだとおもう。どちらも、切り離すことのできない大切な感情であるはず。だから小山田さは「悲しみの先には喜びもある」などとその場しのぎの慰めはしない。それは嘘ではないが、全てを語ってはいない。その喜びの先にも、悲しみがあるものだ。小山田さんはどこまでも素直な人なのだと思う。……つまり、理想郷として歌ったはずの「あの街」なんて本当は存在しないのだと知ってしまっているのだと思う。

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「次の場所」という言葉が指すところは、いったい、なんなのだろう……。資本主義が限界を迎えてしまったという意味だろうか。日本が「経済立国」ではなくなってしまうという事実を受け入れることができず、「ふて寝」をしてしまっている人に対して歌っているのだろうか。太陽≒経済大国時代の日本が見えなくなってしまっても、日々は続いていく、今日本に暮らしている僕たちは生きていかねばならないんだ、ということ?自分にとって不都合な現実から目をそらす人たち≒大方の日本人に対しての語り掛けなのだと思う。「雨が降れば鍵をかけていいよ」と“ハッピーエンドでは歌っていたが、部屋に閉じこもってふて寝していても墜落していくことからは、免れえないのだということだろう。逃げる切ることもできないし、かと言って「あの街」に向かって一直線に突き進むこともできないという、多くの人間にとっての真理を歌っているのではないだろうか。

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ここなどは、小山田さん自身の経験から歌われているように思う。昔インド旅行をした時に、「ケラーラ産」のギターで、インドの町中で歌を歌った経験があるとのことだし、そのインドで見た光景が人生観すら変えたとも語っていた。ただここは、逆を返せば「異国の街」に行かないと、「自分だけのために」歌うチャンスがない、ということだよね。この国では、誰かのために歌わなければいけない、という。僕なんかが聴くと、「なんだ、やっぱり『革命』と『光』は、小山田さん自身も息苦しく感じてたのね」とか思ってしまうのだけど……。

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やはり辛辣。何か行動を促すような前向きな言葉ではなく、夢見て眠るしかないという。“16”の

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を思わせる。そしてここでも、「風」という言葉が使われる。「舞いながら」というのは、「飛んでゆく」という動作とは少し異なるような気がする。「飛んでいこうよ」と呼びかけながらも、実際は、風に翻弄されながら「飛ばされる」しかないという意味だろうか。

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“ピース”で「あの頃に帰ろう」という歌詞もあったのだけど、小山田さんが帰りたいあの頃とはいったいいつのことなのだろう。僕としては、子どもの頃じゃあないかと思うのだけど。なぜなら、小山田さんの楽曲でそういったシチュエーションが頻出するし、ブログでも家族と過ごした思い出が頻繁に書かれているから。学生時代の話とか、ほとんど聞かないよな、そういえば。「もう少し君にいてほしいだけ」という言葉も、その前に「あいつもいつかいなくなった」と自分の元から去って行った人のことを歌っていただけに非常に切実だ。“ゴールデンハンマー”における「信じていいかい 君のこと」とも似ていると思う。

とにかく、あらゆる意味で、何かの行動を促すことのない曲。アンディモリというバンドを、メディアや音楽業界を変える起爆剤にしたいと語っていたかつての姿を見ることはできない。どれだけ煽られても、人は動かないのだという諦念の歌なのかもしれない。しかしある意味でそれは、今の日本に合っているのかもしれないな、とも思う。

こうして振り返ってみると、「街の灯」という言葉を筆頭に“シティライツ”を思わせる言葉がかなり多く含まれている。かつて小山田さん自身が「すごい輝いているんだよ」と興奮気味に語り、PVまで制作された代表曲であるにもかかわらず、2011年の「春の楽園」ツアーを最後に披露されていない。そこには、何か深い事情があるに違いないだろう。僕は、「届かなかった」という苦々しい経験から、いくつかの曲は封印されたのだと思っている。“シティライツ”は、PVになぞらえて、観客がコーラスの部分で指をピースサインにして掲げるのが定番となっていたようだ。小山田さんが楽曲に託した「社会問題に関心を持つきっかけになってほしい」という望みは呆気なくも叶わなかったというのに、ファン同士の団結したノリは楽しみ尽くす貪欲な消費者たちがそこにはいる。同時に、“スパイラル”が2nd発表後に作られたものなら、なぜこれだけのクオリティの曲をこれまで発表しなかったのか、という疑問が残る。思うに、『革命』『光』という「本当にうたいたいうた」を抑え込んで作ったアルバムのコンセプトに合わないために外された、と考えるのが自然だろう。なぜならこの曲は、人が「行動しない」ことについての歌だから、快楽原則にきわめて忠実なJロックリスナーの神経を逆なでるような言葉を発する動機を小山田さんが失っていたのだろうと思う。しかし、こうして最後のアルバムに収録されることになったことを考えると、やはり小山田さんは政治の問題、現代人の病から目を背けることをやめられなかったのだろうと思う。

08.“空は藍色”

ここまでの曲は3分前後のものが多かったが、すごい長さである。アルバム中盤のハイライト。とにかく長い曲である。そしてかつて小山田さんが、ここまでラブソングとしてストレートに受け取れる曲を書いたことがあっただろうか。それだけでかなり感動的。声がもう、とにかくすごいよ。“ウエポンズ・オブ・マスディストラクション”や“シンガー”を思わせる歌詞のラインが存在することからも、この曲はおそらく『革命』前後に作られたか、本作のためのレコーディング・セッションから生まれたものだと考えられる。後者の線の方が濃厚だと思う。

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アンディモリの楽曲には、天気の話題が本当によく出てくる。晴れ、というのは、「まだ自分が食べていくのに困らない程度には、経済的困窮に晒されてはいない」という意味だろうか……。「ずっと眺めても」と、体言止めのような状態になっていて、深くは語らないというスタンスがここでもあらわれる。というか「走り出せそうな気持ち」になっているのに、「空をずっと眺めて」いるだけなのだ。この曲の主人公がどのような状態になっているのか、正直あまりよく分からない。ガラスを通して晴れの空を見上げることができるということは、どこかの部屋の中にいるのだということだろうけれど……。どこかの部屋から出られないような状態を想起してしまう。

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このあたりなどは、東京の大学生っぽい、痛々しい恋愛の歌だと取ることはできなくないのだが……。ここで注目するべきは、「彼女」という言葉である。これまでこの言葉が使われたのは、“16”の「どこにも行けない彼女たち」、“ビューティフルセレブリティー”の「彼女はビューティフォー ヤマトナデシコ」(“彼女”はこの曲の変奏なので外して考える)、“無までの30分”の「永遠を信じた彼女」と、意外にも少ないのだ。そして、あまりいい意味で使われていないこともわかる。個人的には、ここでの「彼女」は傲慢さや、相手のことなど構わないという姿勢が見られることから、ビューティフルセレブリティーで歌われた、アメリカを象徴したような存在ではないかと思う。当然だけれど、これが愛であるとは言いにくいと思う。深く知らない相手からでも、自分のことを強く求められると、それが特別なことであると勘違いしてしまうことは、確かによくあることかもしれない。やはり、「愛」というものがなんなのかよくわからない、という感覚は強いのだと思う。

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旅というモチーフも繰り返し登場する。「揺れる揺れるだけ」と歌われると、出た舟が力強く推進しているとは考えにくいだろう。推進する力よりも波の方が強い、といった力関係が表現されているわけでもなく、それが当たり前なのだという歌われ方だ。

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ここのところが、本当にラブソングっぽく聴こえる。「壮平くんに探されたいーっ(///▽///)」と思った女性ファンの数は、一人や二人では済まないだろう。ひこうき雲と言えば、ユーミンが荒谷由実時代に作った“ひこうき雲”という曲は、若くして亡くなった少女のことを歌ったものだ(諸説あり)。

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というコーラスで有名なあの曲。僕がしつこく提唱している小山田さんは宮崎駿さんと激似説に沿うと、宮崎さんの最終作『風立ちぬ』の主題歌もこの曲である。しかし、小山田さんが、他の作家からの引用をベースに曲を書いたとは考えにくい。たとえば風立ちぬでは、「夢」や「煉獄」が出てくるが(そして「悪魔」も)、それは古典作品である『ファウスト』や『神曲』をベースにして描かれている。要するにインテリ作家というのは、「この作品とこの作品の引用をしてるけど、知ってて当たり前だよね?」というような作法をやってのけることがあるのだ。小山田さん自身がまだ若いし、ファンにもそこまでの教養を求めているとは思えない……(僕が無教養なので気付けていないだけかもしれないが……)しかし、ユーミンの曲と離して考えてみても、ひこうき雲とは、火葬場から出る煙の比喩だとは考えられないだろうか。かつて生きていた人間の身体を焼いた火から煙が生じ、煙突の先から空に向かって上昇していく絵を思い浮かべてみてほしい。その、真っ直ぐに天へとのぼっていく線を「ひこうき雲」と比喩して表現しているのではないだろうか。「もうこんなにも君を探してしまう」という言葉から、「君」というのがすでにこの世を去ってしまった人なのではないかと思う。小山田さんが直面した人の死で、すぐに思い付くのは姉である咲子さんと、“クレイジークレイマー”で歌われた友人の二人だ。

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先の生々しい恋愛事情とは打って変わって、この部分と、直後のラインは、政治的なメッセージについて歌っていると思われる。「東の空」とは、“ウエポンズ・オブ・マスディストラクション”における「東」と同じ意味であろう。つまり、中東地域、イラクやアフガニスタンなどだ。爆撃機が飛んでいくことが、「いつも通り」という感覚を抱いてしまうほど日常的な風景になっているという。その事実に対する憤りは、この曲では感じられない。それが当たり前のこととして、もはや何も感じなくなっている。そしてその後に続くラインは、戦争と、文化の侵略と略奪について想いを馳せているのだろう。これが、どう考えても、天才にしか思いつけない詩だ。メトロポリタンミュージアムが有名な美術館であるということは言うまでもない。そして同時に、NHKの番組「みんなのうた」で、同美術館をテーマにした楽曲が放映されていたことも、知っている人が多いのではないだろうか。ちなみに、調べてみたらこの曲が放送された年は、なんと1984年である。小山田さんが、その辺りの事情を知っていたかどうかはわからないが、おそろしいほどに完ぺきな偶然だと言える。なぜこの言葉が、爆撃機が飛んでいく場面と共に語られるのかと言えば、欧米の巨大な美術館は、戦争とは切っても切れない関係にあるからだ。なぜなら、美術館に陳列されている美術品は、盗みや略奪によって持ち出されたものが大量にあるのだ。ある国を侵略された際に、その国の美術品や工芸品などの文化財を違法に自国に持ち去られてしまい、侵略した国の美術館に収蔵するという事例は数えきれないほど起きている。侵略者側の軍人達が持ち去ることもあるし、戦時の騒乱に乗じた侵略された国の民間人が盗み闇のルートで売りさばくということもある。巨大な美術館とは、略奪と侵略の歴史の展覧会でもあるということだ。詳しい問題は、こちらを参照してみてほしい。

参照:Wikipedia「文化財返還問題」

美術品や工芸品は、単なる「美術的な価値がある品物」ではない。その国や地域に暮らす人々にとって信仰の対象であったり、自分たちが生きてきた証でもある。有形、無形を問わず、文化とは人々の心の拠り所なのである。「みんなのうた」という言葉は、そのことを表しているのだ。つまりこのラインは戦争が引き起こす「文化を殺す」という側面を歌っているのだ。「東の空」という言葉が示しているであろう、イラク戦争の時も、やはり美術品の略奪や盗掘が多発していたようで、日本でも通知が出されていたほどだ。

出展:文化庁ホームページ

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そんな異国の地の風俗が踏みにじられていくこと対しての、今の小山田さんの素直な答えが、これだったのだろう。僕自身にもそんな経験がある。学生時代は政治や社会の問題などについてしょっちゅう考えていた。(と言っても、かなりネトウヨ寄りの思想ではあったけれど……)それが、社会に出て働くようになってからは、自分の生活と、よく会う友だちのことくらいしか考えなくなってしまった。一度他の対象に関心が向いてしまうと、熱というのはどんどん失われていってしまう。あくまで僕のたとえを書かせてもらったが、こういう経験は、誰にでもあるのではないだろうか。「どうにかしなければいけない、どうにかしなければいけない」という強迫観念を抱えていた事柄から、一度距離を置いたら、心が楽になってしまう。そしてその事柄に対する熱は散っていき、もう、どうでもよくなってしまうということ。(僕の場合家庭の問題なんかもそうだった)だが、諦めたとして、それは一時的な逃避でしかない場合というのも多いはず。結局、何かのきっかけを得ると、再び噴出してくるということもまた、よくあることだ。小山田さんだって本当に諦めることができていたなら、こんなアルバムを作るはずなどないのだから。

また、「それでいい」という、現状を肯定するような言葉が、「諦め」という意味で使われることは意外と見かけないものだ。だいたいのロックバンドがこのような言葉を使う場合、前向きな使い方をするはずだ。「今の自分」を「肯定してもらう」ことだけが大切だという人が本当に多いわけだし……。

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この曲を発表した時点で小山田さんは28歳だったが、「大人である」という自覚はまだ持てていなかったということなのだろう。大人とは、余計なものを捨てた機能的な存在であると言える。子どもの頃は、誰でも様々な可能性を秘めている。そして大人になるにつれて、様々な可能性を諦め、割り切り、手放していく。逆に言えば、様々な可能性を抱え込み、自分の進む道を定められていないということは、大人ではない。そしてここで小山田さんは、今、大人になろうという。「わからなくなっちゃった」ことを思い出そうとするのはやめて、どんどん捨てていってしまうべきだという考えが、頭の中を埋め尽くしているのだろう。

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先ほどとは変わり、ここで歌われる「ひこうき雲」は、爆撃機が空に残していったものだと考えるのが自然だろう。このダブルミーニングは、本当に天才過ぎると思う。なんでこんなことを考え付くのか、意味が分からないレベル。“シンガー”における

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と、言葉が示す絵はとても近いと思うのだが、楽曲のフィーリングが180度違う。もう天才ですよ天才。

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やはりこの曲も、このアルバムのためのセッションで生み出されたものではないだろうか……。このような「宇宙」観は、このアルバムでの到達点ではないかと思う。と同時に、どうにもやはり、「死」を思わせる鬼気迫った想念が籠っている。星は見えないということは、これまでのアンディモリの楽曲の流れにおいてみると、絶望の様なものを感じさせられる。星とはこれまで、希望や、マジョリティの側に居場所を見いだせない自分の感性に近いものを指すことが多かったように思う。

ここで言う「君」とはなんなのだろうと思っていたけど、「星が見えない」という言葉と照らし合わせて考えてみると、一つ見えてくることがある。これまでアンディモリの楽曲において、「星」とは、旧来の日本的な価値観からは弾かれてしまっていた、いわゆるアウトサイダー的な精神性や生き方を表現していることが多かった。だからこそ“1984では”

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と、太陽≒日本が沈んでいった後に夕闇が訪れることで、「星」が光を放ち始めるという場面を歌った。しかし、ここでは、宇宙が透けても星は見えないと歌う。宇宙が透けるということは、おそらく、太陽という強烈な光を大地にそそぐ恒星が、地平の向こうに消えていった時間帯……つまり茜色の夕暮れから、紺碧に染まる空に星が輝きだす夜との、その間の時間帯を指すのだと思う。季節にもよるけれど、だいたい、5時から6時の間くらい……ではないかと思う。しかしそれでも、「星」は見えないという。そして「君」を探してしまう時も空は藍色だという。それはつまり、太陽が隠れたにもかかわらず、まだ星も現れてこないという状況ではないだろう。これは、クレイジークレイマーで歌われた友人のことではないだろうか。もうこの世を去った「君」を探してしまう時も、自分がシンパシーを感じる「星」すら見当たらない。自分は一人きりのまま。“1984”で新たな時代の幕開けを高らかに唄ったはずなのに、それから年月が経過しても、自分と同じような考えを持つ人は表われない。希望あふれる未来を夢見てしまった自分への、痛烈な自己批判なのではないかと思う。……まぁ、その後の自殺騒動ありきでの考えでしかないのだけれど。「愛」という言葉が出てきた後では、どこか、恋人や「初恋の少女」と思えなくはないが……。

考察とは全く関係のないのだけど、この部分の小山田さんのボーカルときたらもう……。少年のような美声を枯らしながら歌うさま。ボーカリストとしての才能が余すところなく発揮されている。

09.“優花”

さわやかな曲。本当さわやかである。こんなにもラブソングらしき曲を続けて収録しているところが、憎いというか……。

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ここでいう夏の日とは、おそらく自分たちの若かりし日のことだろう。“すごい速さ”において

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と、子どもでいることが容認される時期が終わったにも関わらず、心の内には強い衝動を秘めている様を歌ったが、そんな日々はもう「アルバムの中」なのだという。このアルバムという言葉は、フォトアルバムと同時に、レコードのことも指しているはず。つまり『andymori』と『ファンファーレの熱狂』という、「アルバム」だ。それらを、この曲の中では完全に過去のものとして歌っている。

また、花という言葉は、“1984”において

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と歌っていた。フラワームーブメントになぞらえて考えるなら、花とは愛と平和の象徴だ。自分が確認した情報ではないけれど、この曲は小山田さんが「将来生まれてくるかもしれない自分の子どものことを想像して作った」らしい。そういう視点で考えるならば、自分の子どもが生まれる頃には優しい風が吹いていてほしい、愛と平和で包まれていてほしいという願いではないだろうか。

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“ベースマン”においても、西荻窪のアパートが出てきた。「階段を登る音」が聞こえるということはあちらも二階だったはず。藤原さんと一緒に住んでいたアパートで、女の子とキスをしたということなのだろうか。まさか、藤原さんとキスをした思い出を歌っているということではないと思うのだけれど……。

一度文章を書き終えてから気付いたことなのだが、つつじは花の蜜を吸いに来る虫に花粉を付け、その虫が別の花に飛んでいくことで受粉させるという性質があったはず。直前に「口づけ」と歌われているから、みつばちが花の蜜を吸う行為をキスになぞらえているのかと思っていた。あるいは、花から溢れ出る蜜を口で受け止める……要は、クンニリングスを官能小説的に表現しているのかと(スピッツみたいだね)。しかし、受粉という遺伝子を残すための営みから考えると、むしろ自分の子どものことを想って書いたという説が信憑性を増す。ここも、「口づけ」と「受粉」のダブルミーニングであったと取るべきだろう。「僕はおしべ 君はめしべ」というような低俗な歌い方はしない。アンディモリの人気の理由って、気品を失わない所にあると思う。

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梓川という言葉が指す意味が全く分からなかったのでグーグルで調べてみたのだけど、一つゴシップになってしまうような事実が浮かび上がった。かなり悪趣味なことだけれど、一つずつ、調べごとをしていたら分かった事実だけ書かせてもらう。梓川とは、長野県の松本市に流れる川であるということがわかった。そして小山田さんの恋人であるという、predawnこと清水美和子さん。アンディモリのレコードにもコーラスとして参加していることも多く、このアルバムでも“宇宙の果てはこの目の前に”で声を聴くことができる。そんな清水さんなのだが、おそらく、信州大学の出身だ。そしてその信州大学があるのが、長野県松本市。これは偶然なのだろうか……。小山田さんと清水さんがいつから恋人関係なのかはわからない。“青い空”にも清水さんがコーラスで参加しているくらいだし、収録時期である08年には二人の交流は始まっていたということなのだろう。けれど、おそらく二人は長野ではなく東京で知り合ったはずだろうし……。二人で長野に旅行にでも行ったということなのだろうか。正直な話、梓川については、今この記事を書くために初めてググったので、思わぬ事実が浮かび上がってきて少し困惑している。少々趣味が悪いなと思いつつも、一応調べて分かったことだけはここに書き記しておくことにする。

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この辺り、最後の曲である“夢見るバンドワゴン”と似たような風景なのかなぁと思っていた。ツアーバスのことなのかと。(けど今考えると、アンディモリの移動はワゴン車っぽいですね)しかし、どうやらダイレクトに恋人に向けられた曲であることを考えると、二人でバスに乗っていたっていうことなのだろうか。もしかしたら長野へは高速バスを使って行ったのかもしれませんね。清水さんが、「優花」という言葉を歌ったのですかね。先ほどの、自分の子どもについて歌ったという流れで考えると、清水さんが、「こんな名前が良いね」と言ったということかもしれない。うわーめちゃくちゃラブラブ。

CDに収録された楽曲についての考察メモなので、ライブでしか披露されていない曲などについてはあまり触れないようにしていたのだが、清水さんに宛てられたのであろう曲はまだある。その曲では

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と、彼女の名前が歌の中に入っているという具合であった。興味がある人は、ニコニコ動画にはあったので、探してみてほしい。タイトルは“ゆりかご”とのこと。

10.“サンシャイン”

かなり勢いはあるのだけれど、なんだかあまり乗れない。自分でも理由はよく分からないのですが……。すごくシンプルな歌だ。この曲が、岡山さん加入前に作られた曲ということはないだろう。“トランジットインタイランド”にアレンジが似ているように思う。曲の終わり方なんかもすごく被っているし……。なんかアンディモリって、ライブで封印してしまった曲の代替のようなものを作っているように思うんだよなぁ。“モンゴロイドブルース”に対して、“ネバーランド”。“サワズディークラップユアハンズ”に対して、“クラブナイト”。“トランジットインタイランド”に対して、この曲という具合に。“シティライツ”には代えがないなぁ……“スパイラル”がそれなのか?ところで今書いていて気付いたのだけど、「トランジットインタイランド」という言葉の中に「引退」という言葉が入っている。あの曲に「リタイアメントのじいさん」という歌詞があったけれど、リタイアメントって引退という訳し方もできる。……小山田さん、だじゃれ?

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こんなに明るく「悪口」なんて言葉を使われると、嫌な感触の抱きようがない。そういう、ネガティヴな話でも明るく共有し合えるというところに、深い信頼関係があるとうかがえる。

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こんなひどい歌詞ないだろう。明るくデコレーションが施してあるものの、明確なスワンソングではないか。もちろん直接的には解散だとか、そういったことを意味しているのだろうけど、今にして考えると、どう考えても死を示唆している。

なんというか、曲そのものが、ドラマーの岡山さんのことを歌っているように思える。前作において岡山さんが作詞とボーカルを担当した“ひまわり”は、漢字で書くと向日葵なのだ。日に向く花。この曲の内容も、どこか人と打ち解けていく様を歌っているように思えるし、そんな日々の思い出なのではないだろうか。

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次の曲でも歌われるテーマだ。いっとき同じ道で近い場所にいたとしても、それは完全に平行な道を歩んでいるわけではない。最初はほんの小さなズレだったとしても、時間が流れていくごとに、走る勢いが増すごとに、互いの距離は離れていってしまう。これまで「別れ」や「離れていく」ということについては何度も歌われていたが、かつてないほど疾走感のある言葉と楽曲になっているとは思う。

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きどることはない、というのはアンディモリのスタンスをよく表していると思う。……けれど、なんとなく過ぎた日ってなんだろう。「ただひたむきに」旅をしてきたんじゃないのか……わかんない、なんだこれ。前作では、「光」に言及されるのと同じほどの回数で歌われた「闇」。むしろ今作では、「光」に対する言及が少ないことに気が付く。そしてやっぱりこの部分も、「自分に向けてのメッセージ」という色合いが強いように思う。こんなにも強く繋がることができていたのだから、またどこかで深くかかわることができる人に出会えるはずだ、という希望が込められているのではないだろうか。

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風というのはこれまでも頻出していた言葉である。ハイウェイとは高速道路をツアーバスで移動したということではないだろうか。そしてそれらが切り裂いたのは「夏」ということは、自分たちがバンド活動を続けるということで、モラトリアムを脱することができたのだということを歌っているのではないだろうか。夏=モラトリアムというのは、自分が何者でもないことが許される時期であり、そのことが心を不安定にさせる時期のことだ。そして小山田さんは1stアルバムを発表し、ツアーで全国を回る中で、自分はミュージシャンとして生きていくという決心を固めていったはずだ。青い海を渡る声とは、バンドがカナダや韓国でライブをしたことを意味しているのだろう。雨が降ったと歌った後に「虹」について言及するということは、なんだかイライラした後でも、そんな日々は無駄にならず糧になったのだという意味を含んでいるだろう。もしくは、鬱の後には躁がある、というような。良いことも悪いことも合わせて、これまでバンドが歩んできた道のりを言葉にしているのだと思う。本人たちは、本当に、どんなときにもひたむきだったのだろう。

11.“ゴールデンハンマー”

タイトルであり、曲中繰り返される「ゴールデンハンマー」が何なのか、僕にはわからない。もしかしたらインタビューとかでは話しているのかもしれないけれど、あまりアンディモリのインタビューを読んでいないという情けない事情もあります……。ネットで調べたところ、テレビのクイズ番組「100万円クイズハンター」や、パズルゲーム「レッキングクルー」のアイテムに同名のものが存在する。前者ではゴールデンハンマーを持つ人だけが答えることができるクイズがあり、後者ではゴールデンハンマーを使えば「どんな壁も壊すことができる」らしい。このゲームもなんと1984年にアーケードで稼働開始したものである。しかし曲中に「テレビ」という言葉も出てくるし、クイズ番組のゴールデンハンマーが正解なのだろうか……。単に、「ハンマー」という何かを破壊するための道具に、「ゴールデン」という何かしら輝かしいニュアンスを付加させることで、楽曲もモチーフである「誰かのために自分の大切な物を壊す」ことを印象付けようとしているだけなのだろうか。結局のところ、曲の中で答えが明かされない辺り、この曲なども「マクガフィン」であるのかもしれない。冨樫義博さんのSF漫画『レベルE』にもゴールデンハンマーは出てくるけど、そこから取っているとは考えにくい……。一応そこに触れておくと、ファンタジーゲームのような世界でのエピソードの中で、「みんなで一緒に唱えると正義の鉄拳が敵を殴り飛ばす」というもの。この線は薄そうな気がする……。まぁ、ゴールデンハンマーが何からの引用なのかを知らないでも、この曲を理解することはできると思う。

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これは、実際に見えなくなってしまうという現象に見舞われているのか、それとも、他の美しい人に目移りをしてしまうという欲望の在り方を歌っているのか……。涙で視界がぼんやりしている状態を歌っているとも思いにくい。あらゆる物がぼんやりとしか見えなくなってしまう≒感覚が抽象的にしか機能しなくなってゆくということか?それならば、テレビで追いかけたあの美女≒脳内の記憶が視界にちらついてくるというのは、神経に異常をきたし始めているのではないだろうか。このアルバムにおける「全ての壁が曖昧になっていく」という言葉にしがたい現象と同じラインで考えるなら、「共感覚」的な表現であるとも考えられる。

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まさに「わけがわからん」状態だと思う。芸術家であるかどうかを差し置いて、小山田さんという人は本当に混沌とした頭脳を、心を持っている人なのだなぁ……と思わされる。もしくは、「想いを言葉にすることができた」というのは錯覚でしかないかという感覚だ。言葉にできたつもりになったとしても、それはただの錯覚やこじつけや思い込みでしかないということは、本当は、日常的に起きていることなのではないだろうか。

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なんかここのところは、小山田さんが好きだというミスチルの

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という歌詞を思い出させる。

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自分がイカれているという自覚があるということは、“トワイライトシティー”における「イカれたあの子」とは、小山田さんのことだったではないだろうか。やはり、小山田さんが女の人のことを歌ったときは、むしろ自分のことを指している場合が多いと考えた方がいいだろう。(そうか、考えてみると「あの子」と言っているけれど、本当に「子ども」を指しているのであって、別に女の子のこととは限らないしな……)と、おそらく、イカれていたいというのは、大人になることを拒んでいるということでもあるだろう。

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僕ら、ということは、少なくとも「僕と君」の二人が一緒に見つけたものであるはず。ということは、この楽曲の主人公のハンマーを持っているか、「君」と共有しているはず。主人公は、「君」が自分の作ったものをうらやんだとして、自分も同じようにそれを壊すことができるだろうか。自己犠牲と貢献についての歌なのだと思う。

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“サンシャイン”で歌われたばかりのモチーフである。突き詰めていけば、全く同じ場所を目指している人なんて、どこにもいないのだと思う。特に今の日本では、共通の価値観や倫理というものは失われていると言ってもいいだろう。もちろん、昔の日本ですら、同じところを目指していた人なんていなかったのだろうけれど、そういった思い込みが崩れる機会というのも今より少なかったはず。

繰り返し、様々な形で、「相手に伝えられない」という場面が歌われる。先ほどはガスのようにもやもやした形で、掴むことができない、言葉にできない感覚を歌った。そしてここでは、相手との関係性が変化してしまうことを恐れて言葉を抑え込んでしまうという心境が歌われる。なんか正直、この「ガス」っていう言葉があんまりいいチョイスには思えないのだけど……。形を持たない性質と、外に出しては嫌がられるようなものだというダブルミーニングなのではないかと思うのだけど、なんか、僕がおならが好きじゃないっていうだけかな……。よくアジカンの後藤さんが屁についてのジョークを言っている印象があるのだけど、本当に好きじゃないんですよ……面白くないし(後藤さんディスっぽいことばっかり言ってごめんなさい)。僕が気付いていないだけで他にもすごい意味がこもっているのかもしれない。

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この歌が、恋人である清水さんに向けて歌われたものであれば、すんなり納得することができる。彼女が作った曲に小山田さんが嫉妬し、彼女はその曲を世に出さなかったということだろうか。……邪推してみたけど、なんだかあまりリアリティがない。また、初代ドラマーの後藤さんが、アンディモリを脱退する前にインタビューで語った言葉を思い出す。そもそも後藤さんもずっとバンド活動をしていて、アンディモリ加入前はソングライティングも行っていたらしい。アンディモリにはドラマーとして加入したが、「壮平の作る曲に嫉妬した」ということを語っていたこともある。その後、アンディモリを脱退し、今は別のバンドでフロントマンとして活動しているという。小山田さんと後藤さんの間にどんなことがあったのかはわからないけれど、僕はこの曲を聴くとなんとなく後藤さんと小山田さんの関係性を思い浮かべてしまう。実際にこんなことがあったのかはわからないけれど、これは、後藤さんのためなら曲なんか捨ててしまえるよ、というメッセージなのではないかということがちらりと頭をかすめる。しかし、自分が作ったものとは、否応なく自分のアイデンティティーが強烈に反映されたものでもある。小山田さんが、そのアイデンティティーを捨てることができるのか、という疑問も残る。

ラジオで小山田さんが話していたのだけど、子どもの頃にクリスマスプレゼントでサッカーボードのゲームをもらったけれど、弟とケンカになってすぐにぶっ壊してしまったという。小山田さんも怒って、仕返しに弟がもらったプレゼントを壊してしまったとのこと。この曲に関係がありそうな気がして書いたけど、なんかなんにも関係ない気もする。

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前のセンテンスで、「僕が君にすべてを捧げたら 君は微笑んでくれるのかい?」と歌っていたのだが、ここでは、「君」の方が自分の手で大切なものを壊す。相手のために、何を捧げることができるか、何を捨てることができるかということを歌っているように思う。相手への貢献といおうか。信頼とは、負ったリスクや賭けてきたコストによって生まれるものだ。自分がいつでも逃げだせる姿勢を取っている人を、信用することができるだろうか。本気の度合いというのは、相手がどれだけのリスクを背負っているかで測れるものだろう。相手が、自分のために、作り上げたもの≒アイデンティティーを捨ててくれた、というのはある意味、理想的ではないだろうか。自分ができないことを、相手はやってくれるという構造。 “ピース”で歌われた

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という一説を思い出す。あの曲ではまた、「本当の心」と「本当の気持ち」という言葉も繰り返し歌われていたが、その、自分の本心や素直な気持ちがいったいどんなものなのかは歌われなかった。どこか、あの曲も、「腹に溜まったガス」のようだなぁ、と、なんとなく思う。

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この部分は、どこか、小山田さんらしからぬ乱暴なニュアンスが含まれているような気がする。“ひまわり”における

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と共通しているような気がするのだが、それなら、この曲も本作のセッションで生まれたということだろう。僕自身岡山さんのことは好きなのだけど、その明るさというのは、心の中に暗い部分もある小山田さんとは、相性が良かったのだろうか、と思ってしまうことがたまにある。

偽悪的な言い方になってしまうが、あの曲はは、どこか楽観的過ぎるように思えてしまう。泣きじゃくっていた人に「こっちを向いて笑ってくれないかな」と語り掛けて、相手がそれに応えてくれたとする。しかし相手が抱えていた問題、涙を流すことになった原因は、それで解決したと言えるのだろうか。それこそ、小山田さんがこれまで歌ってきた、「自分にはどうしようもできないこと」についてではなく、日本の多くのロックバンドが歌うような「自分の考え方を変えれば、すぐそこにある幸せに気付ける」というような、自意識のありようによって人生はいくらでも変わるのだというメッセージになってはいないだろうか。まぁ、本当に、邪推でしかないのだけれど……。

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相手が、せっかく作った砂の城を自分のために放棄してくれたというのに、まだ「信じていいかい?」なんて言ってるのかよ、という気持ちになる。しかも、「信じていいかい?」の問いかけに頷いてもらえたとしても、それでもきっと主人公は信用することはできないだろう。言葉ではなんとでも言えてしまうし、「今はそうでもすぐに心は変わってしまうだろう……」みたいなことを言いだすに決まっている。結局、信用や愛や安心にすがることができないのは、小山田さんの心の弱さの表れだったのではないかと思う。

ラストアルバムで、こんなことを歌うなよ……と思ってしまうのは、僕だけではないだろう。これはひどいよな。本来であれば、もっとバンド活動を続けて、小山田さんがイカれたことをやめ、熱が冷め、自分が大人かどうかなんてことは気にしなくなるまでの過程を描くべきだったのではないか。アンディモリのコンセプト自体が、イカれている男のドキュメントなのだという話なのだろうか。大人になってからの小山田さんが、どんなことを歌うようになるのか、それはアンディモリで見せるものではないということなのだろうか。

12.“teen’s”

生涯を通じて、これ以上の曲を書くことができるのかというレベルの楽曲。物量戦というか、もはやフルチンモードになったというか……。小山田さんが19歳の頃に書いた曲であり、そこから詩は書き直していないという。なので、03年頃に小山田さんが感じていたこと、考えていたことが、そのまま叩き付けられるように表現されている。当時『月刊歌謡曲』という雑誌に送り、最高得点を獲得したそうだ。かなり直接的な表現が多いので、考察の余地はほとんどない。歌詞の一文一文が、膨らませていけば一曲分くらいにはなりそうなほど大きなネタであり、これまでのアンディモリの楽曲に別の形で使われている部分も多い。アンディモリの楽曲は劇的な展開というか、楽曲の構成の仕方が本当にうまいのはもはや言うまでもないことだが、それにしても、少しずつ音の抜き差しを繰り返していき、曲の後半に向けて熱量が増していく様は本当にすさまじい。ここまでの曲とは違い、ギター、ベース、ドラム以外の楽器は使われておらず、純粋なバンドサウンドで構築されている。この極めてミニマルなつくりは、かつてないほどサウンドプロダクションにこだわり、様々な楽器を投入してきたアルバムのクライマックスに配置されることで、とんでもない効果を生み出した。後藤さんがドラムを務めた時代の最高傑作“サワズディークラップユアハンズ”と対をなす、もう一つの傑作。岡山さん以外の人が叩くなんて想像できないくらいのプレイが聴ける。

はっきり言って、捨て身の曲だ。音楽で「物語≒フィクション」を作り出してきた小山田さんのような作家であればなおのことだ。創作家にとって、自分が何に触発されて創作に駆り立てられているのかということは、伏せておきたいというのが実情ではないだろうか。少なくとも、自分から進んで発信していくべき情報ではないように思う(まぁ、自分からガンガン喋る人、多いですけど)。ましてや小山田さんの場合、何も歌っていない詩の世界に走るでもなく、かといって薄っぺらい喋り言葉を並べるだけのJポップのような世界に走るでもなく、抽象と具体を軽やかに行き来していたソングライターだ。それを、部分的にとはいえ、こんなにもストレートで具体的な事柄を、5枚目のアルバムで歌うのだ。ここまで開陳してしまうというのは、本当に特攻のようなもので、完全に、撃沈していく覚悟で発表しているはず。

シンガーソングライターの七尾旅人さんが19歳でデビューしたとき、田中宗一郎さんは「受信機の壊れたラジオのよう」と書いた。七尾さんの作る楽曲は痛みに満ちていた。それこそ、世界の裏側で起きているような悲劇に対しても敏感に反応し、共感してしまう。感受性があまりにも強く、受信領域が異常なほどに広かったことを指して、田中さんは七尾さんをそのように評したのだ。この曲を聴くと、小山田さんも、そんな感性を持っていたのだろうと思わされる。

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なにが驚かされるって、この、冒頭のラインが、後に対比として使われるということ。こんな凝った構成を、10代の少年が書いたというのが、ちょっと尋常ではないと思う。高校時代に演劇の脚本を書いた経験があるとのことなので、構成の仕方というものを考える機会があったのかもしれないが……。自分が幸福な状態であるということに対する罪悪感が、やはり、小山田さんの中には渦巻いていたのだろう。なんかこの辺りも、宮崎駿さんと似ている……。

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この辺りも、アンディモリの曲を通じて小山田さんが歌い続けてきたテーマである。どうにかしたいことはたくさんあるのに、自分には何もできない。けれど、何もできないという救われない事実を認めたくはない。田中さんの書いたところの「祈ることを手放しはしない」ということではないだろうか。19歳の時にこの曲を書いてから、募り続けた思いが、アンディモリでは発露されている、ということだろう。小山田さんの誕生日って6月17日らしいのだけれど、このアルバムが出た時点で、19歳の時から10年は経過していたわけである。募りまくりなはず。

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“サワズディークラップユアハンズ”における

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とは、やはり小山田さん自身のことに他ならなかったのだろう。“路上のフォークシンガー”でも、ほとんど同じ場面が歌われている。平和と愛なんかテーマにしても誰も耳を貸さないということは、19歳の時点で痛いほどにわかっていたのだろう。

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この言葉が前の段と繋がっているならば、路上のフォークシンガーの顔に吐き気がする、ということなのだろう。まぁ、いくつかの楽曲からわかるように、小山田さんはダブルミーニングをうまく使いこなす人なので、どちらにもかかっているのかもしれない。にしてもこれが19歳の書く詞とは到底思えない。「吐き気のする顔」は“青い空”にも出てきた言葉だ。そのことから、小山田さんが、どれほど昔から詩を書くということに対して意識的であったかがわかるだろう。「紙切れ」という言葉の選び方が、19歳の少年が書いたとは思えない。「金」「名刺」「履歴書」「賞状」など……人が、自分の自尊心を仮託する「紙」は無数に存在する(あるいは、“サワズディークラップユアハンズ”における「パスポートやカード」)。それを、自分の醜さを隠すために掴み取っただけだろうと、悪態をついて見せる。小山田さんはやっぱり天才なのである。

“MONEY MONEY MONEY”でも歌われたことだが、やはり、拝金主義的な価値観には明確な嫌悪感を抱いているということだろう。他のアルバムのメモで、何度かジブリの宮崎駿さんを引き合いに出した。もちろん、宮崎さんは日本でもトップクラスの知名度を誇る国民的作家なので、名前を挙げても話が通じやすいという理由もあるのだが、小山田さんとはこの辺りが本当に近いと思うのだ。宮崎さんは第二次大戦の戦時中に幼少期を送っているが、父親が飛行機の工場を営んでいたため、貧しい思いをしたことがないとのことだった(『風立ちぬ』によく表れている)。また、常に自己否定を繰り返しているところや、自分の中の醜い部分も作品の中に込めている部分も、とても似ていると思う。宮崎駿さんは、(こういうと身も蓋もないけれど)美少女が大好きである。しかし、作品の中で、美少女自分のものにしようとするのは、むしろ悪役である場合が多い。ラピュタのムスカなどは、美少女をめとろうとするし、民衆を蔑視しているし、裕福な人間でもあり、宮崎さんが批判している思想がすべて詰め込まれたような存在だ。対して主人公のパズーは、親を亡くしていて、自分で炭鉱労働をして日銭を稼ぐ肉体労働者。家には生活に必要な物しか置いていない。おもちゃもマンガもTVPCも当然ない。この曲に最も強く表出しているとは思うが、小山田さんも、自分自身が恵まれていることに対する罪悪感がとても強い。それだけでなく、自分が好きなことをするためには、「恵まれている」というリソースを使わなければならない、という部分でも共通している。もちろん例外はあるが、芸術活動に従事するということは、経済的、物質的に恵まれている人間でなければ叶わないことだ。小山田さんと宮崎さんが似ている、っていう話をするとキリが無くなるのでこの辺りにしておく。

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01年当時は資本主義国家の独走トップランナーだったアメリカにテロを仕掛けた人々を、妬みや僻みが動機であったと短絡的に切り捨てた大人たちがいた、ということだろう(当時中二で社会問題に全く関心が無かった僕は、リアルタイムのニュースを覚えていないです……)。別の側面から見れば、あのテロは宗教や政治的な信念を持った人々が命をかけても挑むしかなかった戦いであった。たとえばビン・ラディンがアメリカへの反感を強めたのは、湾岸戦争後にイスラムの聖地であるサウジアラビアに米軍が駐留したことも原因の一つなのである。テロ行為は許されることではないが、テロの裏にあった様々な背景を読み解こうとすることなく、妬みや僻みという感情が先走ったことで起きたことなのだと一刀両断にできるほど単純な出来事ではないはずだ。小山田さんは、周囲の大人に、「無邪気に訊ねて困らせていた」のかもしれない。

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このラインがコーラスである。ここまでの自己批判をさらけ出したアーティストは、他にいないと思う。Syrup16gの五十嵐さんが、セルフタイトルアルバムの冒頭で

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と歌って見せたが、そういったヤケクソ感というか、神風特攻精神というか、自爆ですよね。こんなことまで歌ってしまったら、次に何を出せばいいのか、誰だってわからなくなってしまうだろう。実際に、五十嵐さんもバンドのラストアルバムでこんなことを歌ったわけだし……。こういった思想を「馬鹿な気持ち」という言葉にしなければならないほどに、小山田さんは追いつめられていたのだろう。もちろん19歳からこの曲を発表するにいたるまで、常に自分を追い込み続けていたわけはないはず。わずらわしいことを考えることなく、心の底から楽しんでいる瞬間もあったはずだ。だから『光』というアルバムもできたのだと思うし。そういえば、シロップも解散ライブの最後の曲は“リボーン”という曲だったことを思い出す。書いた本人は「リアリティがないから好きじゃない」とぼやいていた曲なのにもかかわらず、ファンからの人気投票では圧倒的な人気を誇った曲。僕は嫌いな曲だったりするので、その点と、アンディモリが“モンゴロイドブルース”や“シティライツ”や“サワズディークラップユアハンズ”といった傑作を封印してしまったことは、似ていると思う。自分が作りたいものと、ファンから求められるものとに違いがあった時、結局ファンと困らせたくないという気持ちが勝ってしまうということ。

そして結局、ここまではっきりとした言葉で歌わなければ「伝わらない」という思いに至るということは、やはり、打ちのめされ、挫折したのだという言外の事実がある。小山田さん自身は、おそらく音楽に触れるときは、その歌や曲が示す意味について考えながら聴いていたのだと思う。しかし、自分が作った音楽を聴く人たちは、深いところに潜ませた意味を受け取ってくれはしなかった。だから、誰にでもわかるような歌を、こうしてあらためて作ることになったのだと思う。

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環境破壊についてのライン……?自分が幼いころに見た海とは、色が違っているということを言いたいのだろうか。海岸にガラスが落ちているということは、そもそもその海が汚れてしまっているということに違いない。大人たちが勝手に作り上げたシステムについての話なのだろう。「知ってるか」という強い語調で歌うということは、自分たちが汚してきたものを直視しろと告げているのかもしれない。

考察とは関係ないけれど、この、「あの青を探してる」から「荒れ果てた海岸を」の部分を、息継ぎなしで歌っているところ、すごいと思う。肺活量が半端ではない。

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人間が作り出した「綺麗なもの」がどのように作られているかを考えたとき、何かを下敷きにしたうえで成り立っている構造が見えてくるはずだ。途上国の人々に安い賃金で労働させたり、環境破壊をしながら作られているものが多くあるはず。そして後に歌われる、広告への不信感とも共通していることだと思う。世の中にはびこるあらゆる欺瞞を許そうとしない歌である。先に歌われた、紙切れという言い回しとは打って変わり、こちらではダイレクトに表現されている。人間の本質を見つめようとする歌だ。……ただ、僕としては、ここは「その手」ではなく「この手」と歌ってほしかったなぁ、という気持ちがある。世間を糾弾する声と、自己批判する心の声のバランスの点から、そう思う。

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さっちゃんとは、小山田さんの姉である咲子さんのことで間違いないはず。19歳の頃に書かれたということは、まだ咲子さんは生きていたころのはず。というか、同じ大学に籍を置いていたのではないだろうか。その咲子さんが、先に福岡から東京に出て行き、髪の毛を染めて煙草を吸うようになっていたということだろう。正直なところ、髪の色を染めたり、女性が煙草を吸うという行為に関しては、03年当時と現在とではかなり感覚が変わってしまっていると思う。また、小山田さんが育った福岡県と、東京とでも全然感覚が違うと思うし……。03年当時、僕はずっと神奈川県にいたし、16歳の高校一年生だったので、小山田さんの感覚と僕の感覚が近いかどうかはわからない。ただ、自分はそのころ女性が嫌いだったし、髪の毛を染める≒ファッションを気にしすぎ≒ヤリマンぐらいに思っていたので(今では馬鹿だったと自覚してます)、「髪の毛を染めた」女性に対するいかんともしがたい気持ちというのは、ある程度理解できる。自分が女性嫌いで処女厨(処女以外の女許さんみたいな派閥)だったということもあるとは思うのだけど(今では馬鹿だったと自覚してます)、それにしても、90年代初頭から半ばにかけてって、「渋谷」「ギャル」「援助交際」という言葉がニュースで本当に頻繁に取り上げられていたじゃないですか。そういう情報を通して、「性に対して奔放なのは悪いことだ」という刷り込みって、多かれ少なかれ、けっこうあったと思うんですよ。僕だけじゃないですよね?今現在、髪を染めるのなんて社会人でも当たり前になっているし、煙草を吸う女性の数というのは年々増えている傾向にあるようだ(反対に男性は減っている)。こういう、開放的なライフスタイルの人に対して、抑圧的な考えを持つ人って、その人自身が抑圧された環境にいたことが多くはないだろうか?まぁ、小山田さんが自信を抑圧してきたということは、この曲の中に事実としてはっきり刻印されているとは思うのだが……。小山田さんは、高校時代は寮生活を送っていたらしいが、やはり両親が学校教師をしていたということだし、どこか抑圧を感じていたのではないだろうか。それに対して、上京していた咲子さんが自由を謳歌していたことで、批判めいた気持ちを抱いた、ということを示唆しているのではないかと思う。なんというか「久しぶりって言いました」という言葉が、胸にズンと重く落ちてくる。小山田さんの、自己嫌悪の根拠というのがどこにあるのか、僕にはあまりわからない……。

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どのような傷を楽しんだのか、具体的には歌われないが……。ヒントとして、“路上のフォークシンガー”における

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という言葉がある。要はそういう、他人が傷ついている様というのを、下世話な目線で楽しんでしまう感性のことを言っているのだろうと思う。やはりここでも、そんな自分を押し殺すという自己を抑圧するという心の動きが表現されている。“サンシャイン”では、メンバーとともにテレビに出ている芸能人の「悪口」を言い合うくらいのサディズムはなんともなく出てくるようになっているようだが……。それは、自分の中の醜さを見せることができる程度に心を揺することができる相手が見つかったということなのだろう。この曲を作った当時は、一人暮らしを始めたばかりで友だちもいなかった、と語っていた。

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20世紀は広告がどんどん力を強めていった時代だ。03年頃、もちろんインターネットはかなり普及していたと言えるけれど、まだパソコンそのものが高価だったこともあり、「一人一台」というレベルではなかったと思う。今であれば、人々は誰もがスマホかパソコンを持ち、自分の欲しい情報を見つけることが出来る。(欲しい情報しか得ない、という悪い面もあるけれど)ただこの頃は、情報を得ようとするとテレビや新聞や雑誌などに頼るしかなく、それらには広告がどでかく載っている……たとえばファッション雑誌を開こうものなら、そこには広告しかないようなものだったりするし……。「すべてが巨大企業にコントロールされているのではないか」という、被害妄想も多分に含む閉塞感というのが、けっこう強かったように思う。この辺り、僕の個人的な感覚なのだけれど、他の人たちにとってはいったいどうたっただろう(そういったことを糾弾してくれる小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」にはえらいハマっていました。世の不正を暴く的な)そして近年では、インターネットの掲示板やSNSにおいて一般ユーザーを装って商品の印象を操作する「ステルスマーケティング」という手法も生まれているくらいで、あらゆるところに広告が存在している。小山田さんはステマについての言及はしていないけれども、テレビや新聞が力を弱めはじめた現在でも、「偽りの広告」はまだまだ健在なのだ。

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19歳の時点で、「愛」という言葉を平気で口にするという習慣への疑問はすでに持っていたようだ。「恋愛資本主義」とは言い過ぎな気はしないでもないが、お金を使わせるには恋愛中毒にさせてしまうのはとても効率がいいことだ。日本においてクリスマスやバレンタインデーが、恋愛がらみのイベントとして広まったのは食品会社の戦略によるところが大きいのだ。愛なんてものは、今や娯楽の一種に成り下がってしまっている。自分が生きていくために必要な金を稼ぐのに精いっぱいだという人たちが「愛があれば幸せだ」なんてことを考えているだろうか。もちろん、「愛」という一つの言葉の中に、人々が見出すものが多すぎることも原因だろうとは思う。エグザイルの歌う「愛」と、矢野顕子さんの歌う「愛」とが、同じものではないように。

綺麗な顔についてのラインは、もちろん、美しさを求め続ける女性や、女性に美しさや可愛らしさを強要する社会に対する批判も込められてはいるだろう。しかしこの曲の文脈におかれると、本当に多様な解釈が可能になってくる。老いから逃れようとする人々に対する揶揄?戦争や病気が自分とは無縁だと思っている平和ボケに対する警告?いつまでも、あなたたちが作ったシステムが守られていると思うなよ、という糾弾?何度も書くけど、19歳の少年が、現代社会への鋭い批判がこれだけ込められた曲を書くということが異常。

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剥き出しの言葉なので、特に書くことはないのだけれど、冒頭の、恵まれた自分との対比のさせ方が本当にうまい。そして、曲の最後のコーラスの部分における小山田さんの雄たけび。どれだけ声が続くのかと思うし、その声が、どんどん枯れていくのも凄まじい。小山田さんが、自身の声を枯らして、ここまで大きな声で叫んだのは、この曲だけなわけで。どこかで一度でも他の曲でこの声を使ってしまっていたら、ここまで強いインパクトは生まれていなかったと思う。この辺りは計算して取っておいたというよりは、偶然なのだろうけど、アンディモリの楽曲においては、ここでしか使わなかったということも、すごいっすよねぇ……。

この曲のドラムを聴くと、二期のアンディモリも、到達点に上り詰めたのだなぁ、と感慨深いものがある。

直接関係はないのだけれど、僕が、小山田さんととても似ていると思っているアメリカのシンガー・ソングライター、ブライト・アイズが同時発表した二枚のアルバム『アイム・ワイド・アウェイク・イッツ・モーニング』と『デジタル・アッシュ・イン・デジタル・アーン』についての、田中宗一郎さんのレビューを引用する。(個人的には前者が圧倒的に好き。フォークを基調としながらもとてもエモーショナル)

ブライト・アイズは、1曲の中に、ドラッグの助けを借り、愛する人に支えられることで、どうにか孤独をやり過ごしている自分自身と、互いに敬虔なクリスチャンでありながら、別居状態にある両親といった、満たされてもなお幸福に辿り着けない人々と、新聞の紙面に印刷された膨大な戦死者の数、そして、ドブの中に逃げ込むことでようやく安らかな眠りを得ることが出来る兵士達という、あらかじめすべてを奪われてしまった人々を対比させながら、不平等と矛盾に満ち、美や調和や平和からはほど遠い、我々が暮らす世界のさまざまな断層を描き出した。(中略)彼は、そんな泥沼のような混乱と不安と諦念に足をとられそうになりながら、同時に、愛すべき友人達のことを想い、自分自身が今ここに存在することそのものの神秘に感謝し、この世に暮らすすべての人たちが平和に暮らし、幸福を感じることを願う。それは、時折、僕らが常軌を逸して、オプティミスティックな時に感じることでもある。だが、あなたよりもコナー・オバーストの方が、少しだけすべてに対して敏感で、少しだけ懸命なのだ。すべてに失望して、すべてが嫌になって酒やドラッグの力を借りたり、誰かを傷つけることで、最悪な気分をやり過ごすしかないような時には、この2枚のレコードは少しだけ助けになってくれるかもしれない。もしかすると、アナタは正気を取り戻して、いつもの強くて、やさしいアナタ自信を取り戻すことが出来るかもしれない。だが、はっきりと両目を見開いて、朝という新たな受難に立ち向かうことが出来るのは、いつだって「孤独なひとり」なのだ。愛し、愛されて、生きること―――そのために、我々はたったひとりで生き、たったひとりで死ななければならない。だが、そうして懸命に生き抜くことだけが、幸福というものの正体ではないか。これは、そうした残酷な真理の、そして喜ばしき神秘についてのアルバムだ。

13.“カウボーイの歌”

前回のエントリでも書いたが、小沢健二さんの“カウボーイ疾走”に曲のイントロが似ている。というか、歌の内容もかなり似ている。どちらも、曲の主人公にカウボーイという知り合いがいて、そのカウボーイの言っていたことがリフレインするというものだ。そのカウボーイの言うことがどこか皮肉めいていて、浮世離れしたところを感じさせるというところも、似ている。
正直な話、決してクオリティが高い曲ではない。この曲を抜いて、“ティーンズ”のすぐ後に“夢見るバンドワゴン”が来るという構成だと、少し展開が急な気もするが……。ティーンズがあれだけ、完全に燃焼し尽すような曲だったので、こういう気だるげな曲をその後に置くというのは間違いのない判断だとは思うのだが、やっぱり、個人的にはほとんど聴き返さない曲。
この楽曲が作られた時期については不明だが、歌詞から考えると、これまで、自分たちの理想に向けて駆け抜けてきたアンディモリの、その情熱そのものを茶化すような、冷やかすような歌詞になっている。

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とてつもなく強い諦念から曲が始まる。アンディモリの活動そのものが、本当は届くはずのない目標に向かって行くようなものだったということだろう。そう考えると、少なくとも『ファンファーレと熱狂』の後に作られたものではないかという気がする。こんなことを歌っておいて、この後解散しないという選択肢などあったのだろうか……。喜びの歌とは、ベートーベンの“歓喜の歌”とは無縁なのかな。

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小山田さんは、他のバンドのライブの音響が悪かったということをブログに書いて、そのバンドからちょっとした当て擦りを書かれたことがある。純粋な人であるがゆえに人から誤解されたり、疎まれることもあったとは思うのだが、小山田さんもその辺りに何も感じていないわけではなかったようだ。この辺りは、小山田さんがブログで何度か書いていたので、2012年の9月26日のブログを抜粋する。

「好きな音楽や他のミュージシャンへのリスペクトについていままでたくさん嘘ついた。できればまわりとうまくやっていきたいしなるべくいいところをみようとして。(中略)愛想良く嘘をつくのをやめたいと思う。」

「週末」という言葉を、“クラブナイト”を捧げた「週末ダイナー」というアンディモリの所属レコード会社のイベントと結びつけるのは、少し無理があるだろうか。まぁ……ああいう自殺騒動なんかが起きてしまうと、本人の周囲の環境に、何か追い詰めるような要因があったのではないかと思ってしまう。

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『革命』と『光』では何度か、立ち止まる、振り返るという言葉が使われていたように思うが……。そう考えると、この曲も、最近できたものなのではないかという気がする。アンディモリの楽曲では、何度も何度も「時間が無い」という事実について歌われてきたが、このアルバムではそれがきわまっていると思う。「時間の果ては一寸先に」とか「時間が無い時間が無い 頭を抱える君の横で歌うよ」なんて、もう本当にタイムリミットが迫っている状態だろう。というか、時間切れのような感覚。やっぱりバンドの解散、ひいては自分の自殺願望に抑えが利かなくなってきたことを意識していたのではないだろうかと思う。

ところで、小山田さんが好きな映画として挙げる『パーフェクト・ワールド』。その監督であるクリント・イーストウッドは、西部劇ドラマ『ローハイド』に出演していたことで有名だ。その後も、ウエスタン映画の傑作に数多く出演しているので、現代アメリカの体現者イーストウッドの礎を築いたのはやはりカウボーイ時代があったからこそ、という捉え方もできるだろう。カウボーイとはそもそも、時代遅れの存在なはずだ。『トイストーリー』の例を挙げるまでもないが、「科学」にとって代わられてしまった価値観ではないだろうか。どこかこの曲の中では、亡霊のような存在として描かれているのもうなずける。日本でウンコみたいなリメイクが作られた『許されざる者』という映画も、ウエスタン映画。ここでイーストウッドは、自分がこれまで、エンターテイメントとはいえ暴力的な作品を多く作ってきたことに対する自省、贖罪のような作品を作る。自分が作ってきた作品に対して、自らリアクションする。この先の小山田さんも、そういう曲を作るのではないだろうかという気がする。

14.“夢見るバンドワゴン”

アンディモリのCD音源の、最後を飾る曲。この曲は解散が決まってから作られたものらしい。前回のエントリでも書いたことだが、小沢健二さんの“恋しくて”という楽曲と、どこか似ているものがあるように思う。

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“ティーンズ”で「路上で歌うティーンエイジブルース」という言葉を使ったばかりなわけで、そうなると、小山田さんの中で「平和と愛が永遠のテーマ」なティーンエイジを終わらせることができていないということなのだろう。歌の背景自体はまさにバンドがツアーの移動に使うワゴンなのだろうけど……。しかし、もうアンディモリのメンバーが、一つのワゴンで高速を飛ばすなんてことは、ないわけで。歌詞を直接的に受け取ってしまうと、かなり感傷的というか、ひどい歌だなぁと感じてしまう。「遠い街」というのは、これまで通りある種の理想の比喩ならば、バンドが解散してもメンバーたちはそれぞれの理想に向けて走ってゆくということなのだろうとは思うのだが……。

黒ずんだ狼の怪しい瞳っていうのは、なんとなくわかる。『ファンファーレと熱狂』の中で何度か言及された「豚」というたとえの延長ととらえるならば、『三匹の仔豚』の童話のように、豚を食べようとする狼なのかもしれない。人を食ってでも欲を満たそうとする存在の象徴とでも言おうか。おそらくアンディモリのメンバーも音楽業界で生きていこうとする中で、強欲な人に何度も会ってきただろう。小山田さんはブログで「音楽業界は不況というけれど、そうなったら本当に音楽を好きな人しか音楽業界に残らないと思う。それは良いことだ」と、暗に、音楽をあまり愛していない人たちが金儲けのために音楽を使っている状況を批判していたこともあるほどだ。しかし、それがあどけない笑顔に乗っているっていう状況がよく分からない……。このアルバムの中で何度も出てくる「無邪気」な顔に、黒ずんだ怪しい瞳乗っている、っていうのは……。“グロリアス軽トラ”で歌ったように、無邪気さも強欲さも、どちらも自分の心の中には潜んでいるものだ、ということなのだろうか。

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「風」という言葉はこれまで、本当に何度も何度も使われてきた言葉だが、ここでは風の向きや温度が変わることに対してあまり否定的ではないように思う。肌色の恋ってすごい言葉やな。あまり関係はないのだけど、解散ツアーで披露された“おいでよ”という曲でも、色の名前が何度も強調して歌われていた。これから先の小山田さんの曲には、なんだか、色の名前がよく出てくることになりそうな気がする。

心無い罵声という言葉があるけれど、まぁ……。考察とは関係のないことだけれど、小山田さんのハーブ騒動があった後、その部分を使って批判をする人がとても多かった。反社会的な行動の一つや二つでごちゃごちゃ言うなら、ロックンロール聴かなきゃいいのに……と思ってしまったりはするのだけれど。そういう人って、アルコールが普通に流通していることに対して、何の疑問も抱きはしないのだろうか。さすがに「自殺未遂」に関して悪い言い方をする人は、あまりいなかったように思うけれど……。

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忘れたはずのメロディーという言葉には、少なくとも二つの意味を見いだせる。一つは、自分が昔作った曲を再びバンドとして録音したこと。もう一つは、自分が一度諦めた、政治的な歌を歌いたいという気持ちのことだ。やはり小山田さんは、ただその時に思い付いた歌を発表していくというだけのソングライターではなく、自分の中に起こっている衝動にもきわめて自覚的な人なのだろう。ここで言う「君」というのは、リスナーだと考えてもよいような気がする。“3分間”における「君の眼差しに許されて」という言葉があるように、いつも、自分の作った音楽を聴いてくれる人の反応を強く気にしていたのだろう。黄昏の風というのは、アンディモリというバンドが終わろうとしていることと、日本という国の機運を表していると思う。

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「しかしあいかわらず」なんていう言葉を使う辺り、やはり自分の気持ちが上がったり下がったりを繰り返しているということには自覚的なのだろう。くだらないユーモアで笑いあって、楽しい気分になっていても、恥や悲しい出来事や突然の嵐が自分を襲い、またブルースに逆戻りしてしまう。我々ファンには知らせていないだけで、きっと小山田さんにも様々な出来事が起きているのだと思う。

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“カウボーイの歌”の「手を伸ばしても触れられない空」というラインでも思ったことなのだけれど、どこか司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』を思わせるラインである。坂の上の雲は明治時代を描いた歴史小説であり、日露戦争など、日本が「脱亜入欧」を目指した時代の物語である。坂の上にある雲≒欧米にたどり着こうとする当時の日本を意味するタイトルであるが、つまり、坂の上までたどり着いたとしても、雲には届かないのだという切ない憧憬も表している。自分たちが夢見る場所は、どれだけ走り続けても届かない場所なのかもしれない。けれどもひたむきに旅を続けてきた。というのが、小山田さんにとってのアンディモリだったのではないだろうか。

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どこか、ファンに対しての感謝の気持ちが込められたような部分。満天の星というのは、自分たちが作った曲を愛してくれた人がたくさんいるのだという想いの表れではないだろうか。先に引用した田中さんのレビューではないが、どれだけ雨が降ろうと、朝が来れば、人はそれぞれ生活に戻らなければならない。“ネオンライト”でも似たシチュエーションが歌われていたように。寝ぼけ眼とは、どこか夢から覚めきらない状態のことではないだろうか。つまりそれは、アンディモリというバンドが夢を追いかけ続けたということであり、小山田さんが歌を作り続けるということであり、どこか自分の居場所ではここではないのかもしれないと思いながらも生活を続けるリスナーのことを指しているのだと思う。否が応でも、終わりは来てしまうものだ。そんな当たり前の事実を、今の我々が忘れてしまっている法則を思い出させようとするバンドだったはずだ。

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砂が舞い上がる向こうに何かが見えるというシーンは、“ゴールデンハンマー”で歌われたことでもある。あちらでは君の笑顔が見え、ここでは輝く渚が見えるという。渚が大事だというよりは、「君」がそばにいてくれたことが重要なのかもしれない。まぁ、あまり深い意味などなく、幸せと呼べる場面についてのラインなのだろうと思う。

最後に

以上が、『宇宙の果てはこの目の前に』に収録された楽曲の考察メモだ。このCDの発売から三か月後には解散する予定だったのが、小山田さんの飛び降り騒動によって一年ほど延期となってしまった。そのため、解散話がそもそも解消になるか、もしくはEPをもう一枚くらい出してくれるかなぁ……と期待していたが、結局そういうことにはならなかった。ベスト盤か未発表曲集のようなもののリリースはあるかと思っていたのだけれど、解散ライブのDVDが出るということで落ち着いた。なので、これがアンディモリ最後のCDリリースである。個人的には、ドラマーが岡山さんに交代してから最初の傑作になっていると思う。同時に最後のリリースになってしまったことは、今でも悔しくてたまらない。

もともと、岡山さんのドラムテクニックに不満があるというわけではなかった。けれど今作の場合、そもそもの「音」の質からして、前の二作とは全然違うような気がする。あまり耳が良い方ではないし、音を語るボキャブラリーというのが本当に少ないので、伝わるように書くことができるか、心配ではあるが……。まず音の奥行というか、ふくよかさが、『宇宙~』では圧倒的に増している。また、これまでやっているようであまりやっていなかった、アコギとエレキギターを同時に鳴らすというスタイルを取っている。もともと、小山田さんの弾くギターは、特徴的な音色を響かせているわけではなかった。それこそ、初期は後藤さんという天才ドラマーが一人でオーケストラのように多彩な音をたたき出していた。そして後藤さんが抜けてからはその穴を埋めるように、藤原さんのベースの音も前面に出てきてメロディを奏でるようになった。

ただ、新しい楽器を取り入れていくことで、アレンジのマンネリ化を防ぐことができたとして、その先には何が待っているだろう。音楽的な進化をバンドの活動理念にしてしまうと、必ずと言っていいほど行き詰まりを迎える。だからレディオヘッドは一枚のアルバムを出すのに、何年もの時間を要するのだ。だいたいが、「常に音楽的に進歩していきたい」という強い信念を持っているバンドならば、過去にやったのと同じような曲を作ることに対いて、自分で許すことができないのだろうと思う。甲本ヒロトさんと真島昌利さんが、ブルーハーツを解散させ、ハイロウズを解散させ、現在クロマニヨンズを結成しているが、それというのも、「音楽的発展」をリセットするためだという側面もあるのではないか……。田中宗一郎さんが、誰か音楽評論家の方との対談でそのようなことを言っていたのだけれど、出展失念……。スヌーザーのバックナンバーを漁ってもよいのだけど、時間がそれを許してくれません……お許しください……。そういうわけで、発展の行き詰まり、つまり「終わり」が目の前に見えてしまったということも、解散の一因だったのではないだろうか。もしくは、先に「解散」が見えてしまったから、このアルバムでは一般的なロックバンドが使わないような楽器も導入していったということなのかもしれない。しかし、新しく取り入れられたの要素の、なんと曲になじんでいることか。これまでのアルバムと比べると、本当に色彩豊かな音が鳴っている。もはや、小山田さんがソロ活動において王子様化するのは目に見えていることだ。曲順についても、申し分ない。正直な話、サンシャインとカウボーイの歌は全然聴かないし、アルバムから外しても良いと思う。ていうかカウボーイの歌、長い……。夢見るバンドワゴンを後からつけたのなら、もうちょっと短い曲にしてもよかったのでは……?まぁいいや。

アンディモリがライブでサポートメンバーを入れたのは、ファンファンさんをトランペットとしてゲストで招いたツアーだけだった。ライブにおいて、楽曲を音源通り再現ができるかどうかということについて日本のバンドが口にしているところを見たことがないのだけれど、海外ではけっこうその辺りを言及するバンドは多かったりする。アルバム制作時に楽曲のプロダクションに凝り過ぎてしまったために、ライブでは全然再現できないということが多いのだ。1stが純然な3ピース構成だったし、小山田さんにはその辺りの事情は意識的だったのかもしれない。(まぁ海外のバンドは年単位でスケジュールを組んでツアーを回るし、そこから得る収益も多いから、ライブへのこだわりは日本のバンドと比べ物にならないのだろうけど)

というのがアンディモリの楽曲に関する考察メモの全てです。

DVDのみに収録されている楽曲などについては、特に触れていない。バンドがレコードに収録するという形で世に残した物と、ライブで単発的に披露したものとでは、そもそもの性質が違うと思うからだ。もちろん、ライブで新曲を披露し、リアクションを確かめるという側面もあるとは思うのだけど、やはりアンディモリはレコードのトータリティを強く意識するバンドだったのは、何度重ねて書いても強調しすぎということはないだろう。まぁ、アンディモリのライブDVDは、後藤さん時代の日比谷公園のものしか持っていないということもあるのだけれど……。もし、アルバム未収録の曲について書きたくなったら、自分でブログを作ってそこで単発的に書いていくと思います。

ただ、解散ライブで披露された曲について少し思うことが……。“おいでよ”ってあれ、小山田さんが飛び降りたときのことを書いてるんじゃないかって思う。「すいかの赤がにじんだ」なんて、すいかの大きさや形は人の頭を、赤は血を思わせるし、なんか不吉ですよ。ジョイ・ディヴィジョンの『クローサー』というレコードを思い出す。ボーカルのイアンが完成直後に自殺して、その後にリリースされて物議をかもした作品だけれども……。その一曲目“アトロシティ・エクシビジョン”という曲のコーラスが「This is the way,Step inside」だったのだ。もちろん、ストレートに、さわやかな歌としても取れるのだけど。だから、小山田さんが飛び降りたときに本当に死んでいたとしたら、バンドのフロントマンとして後藤さんが再加入して、その後“ブルー・マンデー”的なヒット曲を量産していくバンドになったら面白いんじゃないかと思った。人の生き死にについて、面白とか面白くないとかって話を持ち出す時点で最悪なのだけど、まぁ、エンターテイメント業界っていうのはそういう構造として成り立っている面というのはあるよなって思う。たとえば、亡くなってしまった芸能人のブログのコメント欄に、何年経っても書き込まれていくコメントを見かけたときに、おそろしさを感じてしまうのは僕だけではないだろう。死にオチ的な美学というか、死というものが、どんどん「美しいもの」「泣けるもの」と捉えられるようになっていないだろうか。いや、もちろん、95%くらいの人にとってはそんなことないのだろうけど、5%くらいの、「ちょっとオカシイ人」にとって、そういうアイテム化してはいないか?と思ったりする。だってケータイ小説とかでの「死」の扱われ方ってちょっとひどいでしょう……。

“それでも夜は星を連れて”なども、相当良い出来。Aメロからコーラスに入ってそのまま曲が終わるという、“andyとrock”というバンド原初の楽曲と同じ構造で作られた曲である。アレンジの仕方もほぼ同じ。「旅」という言葉に重要な言いを持たせている辺り、このアルバムの延長線上にある楽曲と言えるだろう。「酔いに任せて次の店まで」とは、後藤さんが脱退した後もバンドを続けた小山田さんと藤原さんことではないか。

本当のことをいえば、前回書いたエヴァンゲリオンではないけれど、「ファンを蹴散らし踏みにじるような作品」を一度作ってほしいと、本気で望んだ。エヴァンゲリオンの旧劇場版というのは、大いに「オタク嫌悪」に満ちた作品だったのだ。音楽界で、ファンに対して唾を吐きかけるような作品というものを、僕は観たことがない。なので、小山田さんにはそれを期待していたというか……。ファンへの感謝なんかいらないから、シロップと同じで、ファンの笑顔や「救われました」の言葉に負けてしまったのかなぁ、と思う。ヒネくれた非リア充キモオタから見ると、そういう感じ。

それと、エヴァとアンディモリについてもう一つ。ネタバレを書くので、エヴァがまだ消化途中だという人は読み飛ばしてほしい。前回のエントリで、僕は『破』が一番好きな映画だと書いたけれども、作品の中で、主人公が、自分の周りで起きていることについて考えることを放棄しようとするシーンがある。それまでエヴァが描いてこなかった、想い合う二人の抱擁のシーンだ。そのまま話が終わるのかと思いきや、宇宙から飛んできた主人公は槍に貫かれてしまう。それは、主人公の幸せを願う人物が放ったものだった。つまり、キミとボクのセカイに埋没し思考を止めてしまおうとした瞬間に、主人公を想うがゆえにそこから引きずり出そうとする人がいたということ。『破』は、キミとボクのセカイ、という00年代のサブカルチャーにおいて主翼的なモチーフを敢えて踏襲していた作品だと思うのだけど、その作品に、そういった流れへの警鐘とでもいうような「槍」があったのだ。そこが僕が好きな理由なのだ。まずはじめに、自分の中に抱えるカオスを、SF・特撮・アニメーションのボキャブラリーを駆使して作品の中に落とし込む。しかしその後、誰にでもわかるようなエンターテイメントを目指し、時代のメインな流れに乗るかのような作品にダウングレードする(『破』)。だが結局は、そのメンタリティを根底から否定するようなメッセージも込めてくる(「槍」)。この流れは、アンディモリにも似たところがあると思う。まぁ、他のロックバンドがよく扱うようなモチーフをいくつも取り入れたアルバム『光』の後に、メッセージ性の塊のような、世の中の多くの人が煙たがるような事実を突き付けてくる“ティーンズ”を歌うことになった、ということがそう思う理由ですね。なんか、書いてみて、そんなに似ている感が出なくって驚きましたわ……。

自分にとって、アンディモリは完ぺきなバンドだった。完ぺきなんていう言葉では足りないくらい、僕の心を満たし、乱し、振り回してくれた。出会いのタイミングも完ぺきだったし、その後の顛末も完ぺきだった。『革命』で僕を落ち込ませ、『光』では見切らせた。くいしんさんの部屋で何度か聴いて、「ウワなんじゃこりゃ、こんなレコードに金出せるか」と思った時のことは今でもはっきり覚えている。そしてその後、小山田さんが合法ハーブで騒動を起こし、ちょうどハーブに関する議論が白熱していた時期だったということもあり、テレビのニュースでも取り上げられたりした。僕としては、小山田さんの前に大好きだった岡村靖幸さんのことを思い出さずにはおれず、少し嬉しくなった。ミーハーなファン、ルックスに惹かれる生ぬるいファンを、ここで振り落してくれればいいとすら思った。すごく独善的な考えてあることは承知しているが、それは今でも頭をかすめる想いだ。だって、スイートラブシャワーのライブや、解散ライブで、邦楽ロックバンドのライブ特有のノリをしている人を見ていると、やはりムカついてしょうがなかったし。知ってるか、首にタオルを巻いたり、曲に合わせて手を挙げて振ったりするのって、日本のロックバンドのライブだけのおかしな慣習なんだぜ。いや、海外のバンドとか、年齢層高めのライブでも手を挙げることはあるけど、「みんなで動きを合わせて楽しむ」系の動きは本当に、特殊な磁場の中でしか起こらない。そしてその後、解散発表、そして自殺。物語としてはあまりに完ぺきだと思った。リアルタイムで、自殺までしてくれるアーティストと言うものに、僕は出会えたことが無かったのだ。失礼かもしれないけれど、そういった、死に惹かれながらも懸命に生を謳歌しようとするアーティストに、心を動かされてしまうことがとても多い。死を常に意識しているからこそ、生の輝きを描き出すことができる、ということなのかな……。これは僕自身が、考え続けなければならないテーマでしかないのだけど……。そして去年の秋にやっと聴いた最後のアルバムは、果たして、大傑作であった。こういう音楽表現が存在するということを知らなかった。自分が音楽を作り、歌を作らなければならない理由というものを吐き尽してくれるアーティストを知らなかった。

岡村靖幸さんの、バイオグラフィーに沿って聴いてみると、一度スランプがあり、そして復活を遂げている。(こう書くと怒る人がいそうだど)『禁じられた生きがい』という、すごく悪いわけではないけど、あんまり良いところもないよね……な感じのアルバムを発表した後、かなり長い沈黙期間を置き、その後に『Me-imi』という傑作アルバムを発表したのだ。そしてその後、また沈黙したり、逮捕されたり、復活したり、また逮捕されたりする。そして、近年の活躍の幕開けとなるセルフカバーアルバム『エチケット』を二枚同時に発表し、ツアーを開催する。きっと、岡村さん自身も、自分の作る物に落胆したり、たまに良いものを作れて歓喜したりと、そういうことを繰り返しているんだと思う。きっと小山田さんも、僕にとってはどうでもいい作品を出したり、たまに信じられないぐらいの傑作を作ってくれたりと、そういう存在になるのだろうなと思っている。たのむからイカれていてくれ。普通になんてならないでくれ。自分のことを愛さないでくれ。けれど生きていてくれ。

けれど、解散ツアーで新曲を披露するということは少し驚いた。それも、表面上は自殺未遂騒動なんて無かったかのような、真夏の空にぴったり合うような明るく爽快な曲が来るとは思わなかった。

はっきり言って、自殺「未遂」にしてはヌルくないか? と正直思わないこともない。小山田さんは、約4.5メートルの高さの橋から川に飛び込んだらしいのだ。確実に死ぬためには、20メートル以上の高さから飛び降りないとダメらしい。要するにあの飛び降りは、死ぬことだけを目的にした行為とは考えにくい。もちろん、誰もが、確実に死ねる高さを知っているわけではないだろうけど……。多くの自殺未遂は、本当に死ぬことを目的としているのではなく、周囲にアピールすること、サインを送ることのほうが目的であることが多いはず。私は自分のからだを傷付けてしまうくらい追い詰められています、というような。自分のことを想う人からのプレッシャーから逃れるような。小山田さんがなぜ飛び降りたのか、僕にはわからない。本人だってきっと、ただ一つの原因で飛んだわけではないだろうし、特定することはもはや誰にもできないだろう。しかしそのニュースがこれだけ大きく取り上げられたら、小山田さんのことを知る人には伝わったはず。見舞いに来た人や、退院した後に顔を合わせた人たちから、どんな言葉を掛けられたのか。中には、白々しい言葉もあったかもしれないし、本当は会いたくない人も来たかもしれない。けれど、バンドのメンバーや、スタッフや、恋人や家族たちは本当に心配したはずだし、そんな人たちは、小山田さんに会ったらどんなことを言おうか、何を話そうかとずっと考えていたはず。そういう言葉や、あらためて気づいた大切な関係性についての歌がないというのは、はっきり言って消化不良だ。まぁ、これからの活動で少しずつ聴かせてくれるのだろうと期待して待つしかない。とにかく、解散ツアーでの新曲から垣間見える、陽性な部分に振り切れるようになったきっかけがなんだったのかを知りたいと思うのも、ファン心ではないかと思うのだが。僕が『光』をなんで好きになれなかったかと言うと、やはり「きっかけ」らしきものがないのに急にアッパーになったからなのだ。そしてそのもやもや感というのは、自殺騒動を経て「的中していたんだな」と思う。

この後発売されるムジカで、武道館ライブ当日のメンバーの発言を見ることができるようだけれど……。まぁ、多分、自殺騒動についての真意などは、直接的な言葉では語られないだろう。

小山田さんは、頭の悪い僕の予想なんかとは、全然違ったことをするのだろうと思う。というおおまかな予想は、当たるのかもしれない。この先、ソロで活動していくのか、新しいバンドを組むのかはわからない。けれどぼくは、多分音源が出てもすぐには買わないだろうし、ライブ活動が活発になっても聴きに行くことはないだろうと思う。ドラムが岡山さんに代わったばかりの頃には、ライブに行かなかったし。今では少し後悔もしているけれど。“シティライツ”、“モンゴロイドブルース”、“僕が白人だったら”、“サワズディークラップユアハンズ”、そして“ティーンズ”のような曲を、再び演奏してくれる日は来るのだろうか。わからないが……。

本当なら1アルバムにつき1日くらいで書き上げてしまう予定だったのだけれど、大幅にずれ込んでしまった。解散ライブには余裕で間に合うだろうと思っていたのだけれど、結局解散ライブについて書かれた雑誌も全て出尽くした今になってアップロードと相成ってしまった。もし全部読んでくださった方がいましたら、本当にありがとうございます。この先も、好きなアーティストや、自分の思っていることを他の人が書いてくれていない音楽について書くので、そちらにも興味を持ってもらえると嬉しいです。では。

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