『光』と、小沢健二と庵野秀明の共通項|185,000字andymoriレビュー(5/6)

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田中元 twitter.com/genmogura

『光』
2012年5月発表。タイトル通り、ポジティヴで明るい楽曲が並んでいる。メジャーのロック・ポップスと比べてもそん色のない、ストレートな楽曲が多い。これまでのandymoriの遍歴から考えると、ここまで一つの方向にベクトルを振り切って作られた作品というのは見られなかったと思う。音楽性は前作と比べてもだいぶ広がりを見せていて、リコーダーや打ち込みのドラムを取り入れた楽曲などもある。ただ、先に書かせてもらうと、このアルバムについては本当に書くことがないです……。発売当初に買わなくって、くいしんさんの家で何度か聴かせてもらって、「あぁ、こんなもんならもう買わなくってもいいや……さようならンディモリ!」と思ったのだった。結局次作『宇宙の果てはこの目の前に』に感動しまくって、このCDも買ったけれど、それでも全然愛着が湧きません……はい、まぁ、ヒネた感性してるわけです。けど僕にとってのアンディモリっていうのは、ヒネた僕のこともガガンと感動させてくれる存在だったわけですよ。

01.“ベースマン”

もちろん、ベースの藤原さんに向けて作られた曲。藤原さんの誕生日に行われたライブで、本人にも知らされずサプライズとして披露されたらしい。やっぱり藤原さんのベースは良いよね。

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アンディモリが好きで、かつジャニーズも好きっていう人がけっこういるものなんだなぁとTwitterをやっていて思ったんですけど、こういうホモソーシャル的なものへの憧れというものがあるのかなぁと思った。まぁ、小山田さんはしょっちゅう後藤さんとキスしていたり、藤原さんとはアパートの同じ部屋に住んでいたりしたらしいので、そういう感じありますよね。

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先の歌詞に「過ぎたあの日々を思う」というものもあるのだが、「夢の続き」という言葉。今のアンディモリが惰性とまでは言わないけれど、小山田さんにとって夢≒やりたいことは、すでに終わってしまったということではないか。まぁ、こんな調子で、『光』というアルバムに対してはけっこう否定的な見解を書き連ねていくことになると思う。愛してるなんて言わない、というのは、やはり小山田さんの中に「愛」を尊く至上のものであるとする一般的な価値観に対する疑念の様なものが表れていると思う。

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実際にあったことなのかどうかはわからないが、二人で「夜の星」を見つけることができたというラインには、藤原さんに対する小山田さんの信頼の様な感情が表れていると思う。「夜の星」という言葉は言うまでもなく頻出ワードだ。藤原さんも、実はアメリカ育ちの帰国子女らしく、日本的な考え方には馴染めない場面が多かったのだそう。そう考えると、小山田さんとはどこか近い感性を持っているのではないだろうか。夜の星を一緒に見たっていうのは、小山田さんにはとても嬉しいことだったのでは?

02.“光”

かなり明るい曲。アンディモリ史上もっとも明るい曲ではないだろうか。けれどラストライブでは披露されず……。光という言葉は、これまでのアルバムであれば「太陽」という言葉が使われていてもおかしくないはず。それを、太陽という言葉を使わない辺りを見ると、前作までの余韻をどこか断ち切ろうとしているようには思える。

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“ハッピーエンド”に、

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というラインがあったが、その部分に対するセルフ・アンサーソングのような側面があるのかもしれない。少しだけ微笑んだ、というところがいいよね、それと、「弱音」という言葉は“クラブナイト”でも使われる。本作でのキーワードの一つだ。

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田中宗一郎さんが、スーパー・ファーリー・アニマルズの“フォー・ナウ・アンド・エヴァー”というテレビ局のお天気お姉さんについての曲を「永遠とは、「また明日」とう小さな約束をひとつひとつ積み重ねていくことの先にある。そう、手のひらサイズの、とてもしっかりとした愛。大切な気持ち」と解説したことがある。アンディモリの楽曲における、「形のあるものは必ず消えてゆく」という考え方とも、どこか近いものがないだろうか?それはバンド名の由来でもある「メメント・モリ」の精神そのものではないか。「死を想え」「自分がいつか死ぬことを忘れるな」それは人間の肉体の死のみならず、あらゆる価値や物質も全て死んでいくのだ、という意味だ。

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ここで言う「思い出すんだ」とは、「思い出せ」という意味ではなく、小山田さんが弱音を吐いている時でもいつか見た光を思い出すのだという意味だろう。言ってしまえば、過去に見たことがある「僕らだけの」光を思い出せば、まだやっていけそうな気がするということだろう。この楽曲自体、今現在光に包まれているというのではなく、過去に光に触れた経験を歌っているものだ。それも、みんなを包むものではなく「僕らだけの光」という限定的なものだ。偽悪的かつ独善的な見解だが、ここで言う光とは、1stや2ndを作っている時のことを指しているのではないだろうか。あれらの作品は、小山田さんと藤原さん、後藤さんにとっては光だった。しかしそれらは決して、自分たちの考えた通りには、リスナーには届かなかった。つまり、光はすでに過去としてしか存在しない。だから今、弱音を吐いてしまうが、またいつか「光」に触れられる瞬間が来るのではないか、というあわい期待を抱きながら、生活しているということだ。また、闇の中で時を刻む針の音という言葉……これもやはり不穏。この後に、バンドの解散や、自殺を試みるところから考えると、小山田さんはやはりどんな時でも破滅から目を背けることができていなかったように思う。

03.“インナージャーニー”

説明しなくてもいいとおもうのだけど、ジャーニーとは旅を意味する言葉。“モンゴロイドブルース”において「グレートジャーニーの旅路の果てに」という言葉があったことを覚えているだろうか。この曲はつまり、自分の心の中を旅しているという意味であろう。

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夕暮れ、ということはこれまでのアンディモリ的言葉選びから考えると、「5時のサイレン 6時の一番星」にあたる時間帯だろう。何度も書いてきたことだが、太陽は日本の暗喩なので、日本が経済的繁栄の黄昏を迎えているということの表現だろうし、日本の古い価値観が崩れていくことの表現でもあると思う。けれど、日本のそういった状態と、愛を歌うということがどういう意味を成しているのか、わからない。「そうだ」と言いながらも、「僕は臆病者だ」と納得する意味も分からない……。

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はしゃいだ後に悲しくなる、というところが、この後の顛末を考えるとかなり深みを帯びてくるというか……。こういう部分があるから、本作が鬱の前の躁状態に振り切ろうと無理をしているんじゃないか、と思ってしまうのだ。躁状態というか、元気があるように見せようと無理をしているように見えるのだ。

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このあたり、“青い空”の

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と似ている。ここでは、耳をふさいではいないようだけど……。しかしこのラインが何を意味しているのか全く分かりません。すみません。

04.“君はダイヤモンドの輝き”

このアルバムでは様々な形で「愛」「夢」「瞳」について歌われる。ここで歌われる「夢」は、将来の展望などではなく、既に終わってしまった輝ける日々を懐古する形であるように思う。

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ラブソングっぽく聞こえるけど、女性に対して歌われているような気があまりしない。「僕だけが愛した人」というけれど、それがあまり、きれいな言葉には聞こえない。個人的には“クレイジークレイマー”と似たニュアンスの曲ではないかと思う。この曲をラブソングとして聞いている人もあまりいなさそうだけど、自分が好きな相手がいたとして、通常の社会生活を送っていれば、「僕だけが愛する」という状況というのは生まれにくいと思う。もちろん「ダメなあなた、病んでるあなたを、僕は受け止めてみせる」というタイプのラブソングもけっこうあるにはあるのだけど。

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「最後に交わした言葉」なんていうのは、やっぱり、亡くなった人のことを連想させる。“はじめてのチュウ”のように、好きな人のことを想うあまり、相手とのやり取りを何度も思い出してしまうというシチュエーションなのかもしれないが……。やはり、“クレイジークレイマー”を捧げた友人に対する想いを歌っているのではないかと思う。引用しないけれど、多くのラインがそれをほうふつとさせる。

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“サンライズ&サンセット”における、ほんの一言でも言ってもらえれば、ほんの一言でも伝えることができれば後悔は消えるのに、それは叶わないというラインの変奏だと思う。やはり小山田さんは、人の死と向き合う機会が多かったのではないかと思う。伝えられなくなってから、自分の心にしこりができてしまっていることに気付いてしまう、という出来事の多さというか。

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流れ星への言及……夢の様な日々の歌。この楽曲が、過去を思い返していることを示唆する言葉が多いことから、この「夢の様な日々」も、現在のことではなく、過去についてのことではないかという推測が成り立つ。すでに夢は終わってしまったということについて、小山田さんは極めて自覚的なのだ。

05.“3分間”

前作のスーパーマンもそうだけど、変わった構成で、サビから始まる。こういう、一般的な構成にとらわれないところは本当にいいよね、アンディモリ。ただ、曲は、本当に、ちょっと、受け入れがたいというか……音楽的なボキャブラリーが無いので伝わるような説明ができないのだけど、ギターの音が、なんかすごく心地よくないというか……

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マイクを「寂しそうに佇む」って表現するのはすごく珍しい感性です。

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君の眼差しに「許される」という。ここで言う「君」とは、藤原さんや岡山さんなのか、それとも観客のことなのか。歌うことに対して「許される」という感覚を持つバンドマンというのは、なかなか存在しないような気がするが……。“ずっとグルーピー”において、ライブハウスと、シスターが似たような存在として歌っていたことから考えると、何か共通点が見えてきそうな気がするけど、特に思いつかないです。

06.“クラブナイト”

ラストライブでも披露されたし、この曲は人気が高い。しかし、僕はこの曲、これまで一度も良いと思えたことがない。それはどうしても、アンディモリで一番好きな曲“サワズディークラップ・ユアハンズ”まんまのアレンジだからということがある。しかしそれだけではなく、このアルバムで一番「空元気」な曲に聞こえてしまい、痛ましく思えてしまうのだ……。

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なんらかの精神障害というか、病んでいるだろうこれ……ってライン。

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この部分。「赤いライト」が、少し夕暮れ時≒太陽がまだある時間帯の光を思わせる。また、次のアルバムで何度か言及されることになる「大人」という言葉が登場している。大人の顔をしている、ということは、本来はまだ「大人」ではない部分を持っているということだ。そんな「君」に対し、ありのままの笑顔を見せてくれよと告げる。「本来の自分」と「生活を送るためにかぶっている仮面」のようなもののかい離が見られるという意味だろう。こういったテーマは、これまであまり描かれることはなかった。

人の前で見せる表情と、本当の心が上手く噛み合わないという状況を歌ってきた。こういった部分が、小山田さんの複線的な表現を生んだ要因ではないかと考える。これは、「君」に向けている体裁をとりつつも、小山田さん自身が誰かに言ってほしい言葉ではないかと思う。ソングライターが「君」と歌った場合、それは「自分が誰かに言われたい言葉」であることも多いのだ。特に、男性が女性アーティストに楽曲を提供している場合や、ボーカロイドに自作の詞を歌わせる場合など、こういうことが多いと思う。

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この部分。楽曲の帯びるアッパーなフィーリングなどもあるので、普通に聴いてしまいがちだけれど、歌詞だけを読んでみると、けっこうキツいものを感じられないだろうか……。頑張らなくちゃ、って言葉が初めて出てきた。このラインって、ちょっと、強迫観念に駆られているというか……後々になって読んでみると、一番小山田さんが辛そうですけど……。クラブが舞台の歌って、意外と、悲しい歌も多いのだ。尾崎豊さんの“ダンスホール”や、マイケル・ジャクソンの“あの娘が消えた”などなど……。

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「光」という言葉を歌う時、必ずと言っていいほど「闇」にも言及がある。“光”においても、「闇の中で時を刻む針の音に合わせ」という歌詞があるように。光を目指そう、とは言うものの、その裏にはいつだって闇があるのだということは歌い漏らさないのだ。

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これまで発表されてきた曲の文脈と照らし合わせるなら、過去の栄光にすがってばかりいる大人たちと同じような行為にふけることを否定しているのだと思う。しかし「アルバム」という言葉は、そのままレコード≒アルバムという意味で取ることもできると思う。小山田さんは、だいぶ昔に、“シティライツ”も“サワズディークラップユアハンズ”も、ライブで演奏するのを止めてしまっているのだ。そして「アルバム」という言葉にそのままレコードを暗喩させるという手法は、次作の“優花”でも使われる。やっぱりこの曲、辛辣なメッセージが込められすぎだと思う。

やっぱり僕としては、この曲は空元気というか、どこか聴いていて痛々しいものすら感じてしまう。ファンの間では人気が高いということも知っているが……それにしても、やはり“サワズディークラップユアハンズ”まんまだということが気になってしまうし、あの曲が演奏されなくなった代わりにこの曲がある、というところも含め、僕はやはり好きになれない。……あまり関係ないのだけど、岡村靖幸さんが『岡村ちゃん大百科』に収録された文章で、けっこうツライことを書いている。

要するに回りの人間が、自分に期待することに敏感になってしまう。自分が本当に望むことを押し殺してでも、それに答えようとしてしまう。それは、普通に生活する我々も経験する出来事だろう。しかしアーティストというのは、周囲の期待に応えることが仕事でもあるため、そういった部分での歓声が敏感になってしまうという面はあるのだと思う。というわけで僕はこの曲全然聞かないです。悪意ある文章になっているかも、と思いもするのだけど、やっぱりあんまり前向きな歌には思えない……。

07.“ひまわり”

ドラマーの岡山健二さんがマイクを取る曲。作詞に関しては小山田さんと岡山さんの共作とのこと。

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この辺りは小山田さん成分がかなり濃いように思う。こんな時でも、「時間が刻々と過ぎてゆく」ことへの意識は消えることがない。

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と、なんだか、この歌は、岡山さんから小山田さんに向けて歌われたうたなのではないか、という気が少しする。

岡山さんがインタビューで、「アンディモリのドラムをできるのは俺しかいないと思った。ドラマーが変わったことで批判的な意見が絶対に出ると思うけど、俺なら耐えられると思ったから」ということを話していた。「俺なら批判にも耐えられる」というところがかなり男らしくてかっこいいと思った。

08.“ジーニー”

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そういえばこのアルバムって夕暮れ時の場面ばかりが歌われているように思う。「ブラブラしてるだけだ」というところも……なにか、意思をもって歩みを進めているという場面もあまり歌われないなぁ……やはり小山田さんにとって、このアルバムというのは「惰性」「流されて」作ったものなんじゃないかと思ってしまう。ちなみに「風」というのは、空気や雰囲気といった曖昧ながらも強固な、人を動かす何かとして使われることが多い言葉。同調圧力というか。

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ここで歌われる知之とは、ミュージシャンであり小山田さんの親友である長澤知之さんのことらしい。いろんな音楽のフレーズが出てくる知之さんを、アラジンの「ジーニー」になぞらえているということがブログに書いてあった。と同時に、亡くなった友人のことを指しているようにも思う。“クレイジークレイマー”で歌われた、薬の飲み過ぎて死んでしまったというあの人のことだ。小山田さんがそう発言していたわけではないが、けっこう信憑性の高い筋からそういう話を聞いたこともある。美しさという言葉は、この他界した友人に掛けられることが多い言葉である。それにしても、また「許される」って……どんだけ自分のことを責めているんですかっていう話ですよ。なにか、罪を犯し続けている という感覚があるのだろうか……。

09.“愛してやまない音楽を”

このアルバムの中ではかなり好きな曲。ライブではアカペラで歌われるバージョンもすごく好きです。

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素敵なラインではあるのだけど……このアルバムでは、いつになく、小山田さんが自分の精神状態について言及するラインが多い。その後、フォローするかのように「素直な心でいられるよ」などと付け足したりはするのだけど、それでも、やはりこの後に小山田さんが取る行動を考えると……。

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夢は「破れて」いるのである。この時点で、小山田さんは自分の敗北を宣言してしまっている。いや、ちょっと偽悪的な捉え方をしているのはわかるのだけど……。

10.“シンガー”

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この辺り、かなり本音をぶちまけてしまっていると思う。リアルな告白である。光というコンセプトで編まれたアルバムではあるが、やはりそれは表向きな提唱であって、実質的にはたぶんに闇を含んでしまっている。もちろんそれは漏れ出してしまったものだというよりは、小山田さんが意識的に表現しているのだと思う。気付かれないようにしながらも、嘘はつけないというのが小山田さんなんだよなぁ、と思う。

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コンビニをうろうろというところ、“16”における

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とかなり被っている。家にいても

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という気分になってしまうから、とりあえず家を出て、当てもなただただ外を歩き続けてしまう。また、照らされた歩道という言葉。光を当てられた道。誰かが道しるべをともした道。これはやはり、自分の意思で道を選び、時には開拓していった「あの頃」とは違い、今はただ惰性で、誰かが照らし出した(歩け、と言っている)道を歩くだけの行為になってしまっているという暗喩に他ならない。

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今は笑っていないっていうことなんですよねぇ……。この「シンガーだ」という言葉には、小山田さんが自分で自分に言い聞かせているようなニュアンスがあるように思う。アイデンティティーを捨て、ただ求められる歌を歌う存在になれ、という。

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太陽への言及があるが、どこか、懐かしむようなニュアンスが強いような気がする……。

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この部分が、僕にはどうしても、小山田さんの心からの歌には思えない。だって小山田さんはこれまで、自分の音楽を通して色々なことを知ってほしいと願っていたし、「調べてほしい」とまで語っていたのだ。それなのにこの部分は、リスナーである我々が「知っている」感情を歌う、という宣言をしているのだ。既知のことしか歌わない。すでに知っている感情を歌うということは、安心感や、他社に対する無関心を生むだけではないのか?これではただのなぐさめ、Jポップ等と大して変わらない音楽を作っていくということではないか。この楽曲自体は嫌いではない。しかしこれまでのアンディモリの文脈で考えると、どこか、欺瞞であるように思えてしまうのだ。

11.“彼女”

アレンジ的には“都会を走る猫”とかなり似ていると思う。楽曲のモチーフは、“ビューティフルセレブリティー”である。また、「彼女」という言葉は、次作の“空は藍色”において重要なワードなので、覚えておいてほしい。

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“ビューティフルセレブリティー”と同じシチュエーション。「彼女」という言葉が使われているところも同じ。ここまで限定的なシチュエーションばかり歌われていると、実際にこんなことがあったんじゃないかと思わせられる。もしくは、何かの作品のシーンを引用しているのだろうか……。

曲が終わったあと、小さな音で

小山田さん「あれ、間違ったかな」
藤原さん「いや、もはやわからん」
岡山さん「あははははは」

という声が入っている。

かなり、和気あいあいとした雰囲気なのがうかがえる。

ぶっちゃけた話、革命については、まだ「書きたい」と思うことは多々あったのだけれど、この作品については全然言葉が出てきません……。作品そのものへの思い入れがあまりなく、聴きこんでいないからかもしれないのだけど……。やはり僕は、この作品を、無理して躁≒陽的な表現に振り切った作品だとしか思えない。そして、小山田さん自身、自分が空元気であることに気付いている。だから、「心は疲れ果てて」「まいってしまった」などという影の部分が顔をのぞかせるのだ。……書いていて、どちらが陰でどちらが陽かなんて、僕が決めることではないような気がしたけれど……。

アルバムの発売後に起きた事件についても触れておく。2012年11月1日に、小山田さんが救急隊に搬送されるという出来事が起きた。以下、タワーレコードオンラインのニュース記事を引用する。

参照:http://tower.jp/article/news/2012/11/02/n06

小山田は10月31日夜から多量のアルコールおよび脱法ハーブを摂取。同日深夜に泥酔状態で街を歩いた後、重度の脱力感と睡魔に襲われてホテルに宿泊したという。だが、翌11月1日11:00頃のチェックアウト時も体調は改善されておらず、ロビーで起き上がれなくなってしまったため、ホテルの従業員が119番で救急隊に通報。駆けつけた救急隊員に動揺した小山田が暴れたため、救急隊が警視庁に応援を要請し、11:30頃に病院に救急搬送されたとのことだ。彼は搬送先の病院から16:00頃に自宅に戻り、症状が治まった同日深夜に警察で事情聴取を受けたという。

このニュースを聞いて、まずはじめに思ったのは「ロックンロールすぎるにもほどがある!こりゃあ次のアルバムには期待が持てそうだ!!!」ということだった。

だって、『光』がほんとに退屈な作品だったんだもん……。日本の若手ロックバンドで、クスリがらみの騒動を起こすなんてやるじゃん! これが本当に大麻や覚せい剤だったらもっとかっこよかったのだけど……とも思った。不謹慎なのは承知しておりますが。と同時に、岡村靖幸さんと一緒だなぁ……とぼんやり考えていた。岡村靖幸さんは、覚せい剤所持によって三度も逮捕されている。二度目の逮捕の時、すでに実刑判決を受けて服役していたのだが、出所後わずか2年足らずで、またもや覚せい剤取締法に違反するのである。覚せい剤にしろアブノーマルなセックスや援助交際にしろ、反動形成の結果として行われることがとても多いと思う。周囲からのプレッシャーがあり、それから逃れるために、薬物や援助交際に手を出すという。自分のことを追い詰める環境から逃れたいと思って、無意識に、自分を傷つけるようなことをするというのは、本当によくある話だと思う。岡村さん自身、一度目の服役を終えた後のインタビューで、スタッフなど周囲との軋轢や、スケジュールに忙殺される日々に多大なストレスを感じていたのだと告白しているのだ。『光』という作品に否定的な見解で、かつ、「小山田さんもこの環境に苦しんでいた」という考えを持つ人間の見方になってしまうのだけど……。その後一年も経たないうちに自殺という道を小山田さんが選ぶことを考えると、僕にはそうとしか思えない。(あくまで噂なのでここに書くべきことではないのだが、小山田さんについて、ドラッグ系の噂はけっこう各所で聞いたことがある。合法非合法問わず)

というわけで、アルバム『光』については書くことがあまりなかった。一番最初の記事で「革命か光は書くことが少ないので、そのあたりでアンディモリと小沢健二さんの関連性について書きたいと思う」とあらかじめ宣言していたものの、自分でもびっくりしてしまうくらい書くことがなかった……。なので、ここで、小沢健二さんについて少し触れていきたいと思う。正直なところ、小沢さんの曲で聴いていないものもたくさんあるし、聴き込みもまだまだ浅いし、ましてや本人の発言などもほとんどチェックできていない状態である。多分、僕が気付いていないところでも、たくさんあるのだと思う。しかし、アンディモリを語るうえで小沢さんのことを避けて通るということが、僕にはできない。なので、浅知恵なうえ、想像による補完が多いので、間違っているところや情報が足りない、誤っているところなどがあると思うが、許してください! 早くアンディモリの記事を上げなきゃならんのです! あと、表現分野は異なるが、エヴァンゲリオンにも触れる。

二年前のちょうど今頃、僕とくいしんさんでアンディモリについて喋った記事がある。そこで僕は「楽曲をまたいで、同じ言葉を意図的に反復して使うアーティストを他に知らない」というようなことを話した。しかし、今から数か月前に小沢健二さんの『刹那』というアルバム未収録曲を集めた作品を聴いてから、認識が変わった。この人も、めちゃくちゃ、曲の反復使用をするのである。

なぜ僕がそのことに気付かなかったのかというと、僕はそれまで、小沢さんのいわゆる全盛期的な作品にしか触れていなかったからだと思う。僕が入手していたのは1stアルバム『犬は吠えるがキャラバンは続く』、2nd『LIFE』、3rd『球体の奏でる音楽』、4th『electic』だった。聴き返す頻度が多いのは1stと2ndだけ。3rdでジャズアルバムを作って、それ以降は何をやっているのかよくわからん……というのが、僕が抱いていた小沢さんのイメージだった(失礼!)。現在、新作のリリースが途絶えているのも、才能が枯れていったからだという思い込みをしていた……なぜだかわからないけれど。小沢さんのシングルには、アルバム未収録作品が多数あるということは知っていたのだ。しかし、その未収録曲が傑作ばかりだということは誰も教えてくれはしなかった。誰にも聞かなかったのがいけないのかもしれないけど。

きっかけを思い出せないのだけど、数か月前にアルバム未収録曲集『刹那』を聴いた。「笑っていいとも」に出ていたことがきっかけだったのかもしれないけど、違うような気もする……。一曲目に収録されている“流星ビバップ”を聴いていきなりぶっ飛ばされた。それからしばらくそのアルバムを聴き続けて気付いたことが、「言葉の反復利用」だったのである。そう、小沢さんは、アルバムに入れなかった曲では、それまで自分が散りばめてきた言葉たちを再び呼び起こすかのような使い方をしていたのだ。“流星ビバップ”とシングルカップリングであった“痛快ウキウキ通り”の二曲と、『犬』と『LIFE』の二作を聴けばすぐにわかることと思う。やはりこれらも、本人が意識的に同じ言葉を何度も登場させ、一つの言葉に様々なイメージを付加させている。聴き手が頭の中で、他の曲のイメージやフィーリングをリンクさせていくため、結果的に、一つの楽曲における情報量が増大するのだ 。アンディモリを聴いた人たちであれば、「太陽」「コーラ」などの単語に触れただけで、様々なことを思い出すようになっているはずだ。小沢さんは『犬』のセルフライナーノーツでは「このアルバムで僕が何回か言っているように」「また同じくらい何回か言っているように」と書いており、単語やモチーフを反復していることにきわめて自覚的なのである。

そして、andymori≒小山田さんが、小沢健二さんに影響を受けているであろうと思った根拠について。一番初めに気が付いた点は、“ハッピーエンド”の項でも先に触れたが、楽曲におけるシチュエーションが類似していたこと。次のアルバムの楽曲になってしまうが、アンディモリに“カウボーイの歌”があるが、小沢さんの『犬』にも“カウボーイ疾走”という曲があるのだ。しかもこちらは、楽曲のイントロのアレンジもかなり似ている。前者におけるギターの音と、後者におけるピアノ(キーボード?)の音を聞き比べてみてほしい。また、考えすぎなのかもしれないのだけれど、アンディモリの“夢見るバンドワゴン”と、小沢さんの“恋しくて”という曲。こちらもイントロが似ていると思う……こっちはあんまり自信がない。そういった楽曲そのものの類似点に加えて、楽曲をまたいだ単語の反復利用があったため、小山田さんが小沢さんの影響を受けているのではないかと思うに至った。(小沢さんがフリッパーズ・ギターとして活動していたころの相方は、奇しくも小山田圭吾さん……苗字がかぶっているわいな)ライブで既存の楽曲のコード進行やメロディを変えるところなども、二人に共通しているところだと思う。場合によっては、楽曲の帯びるフィーリングや意味性も変わってしまというのに。もちろん、両者とも、ライブに来たお客さんを楽しませるため、驚かせるためにやっているのだろうと思う。いや、本当に音源通りの演奏に終始するバンドって多いじゃないですか……。また、あとで触れるけれど、小沢さんは“ある光”という非常に印象的な楽曲をリリースしている。それに対してアンディモリにも“在る光”という曲がある。ライブDVDには収録されているらしいけれど、聴いていません……お恥ずかしい……。だからおそらく、小山田さんもアンディモリ解散後には、高円寺系王子様としてメディアでもてはやされるようになるはずである。恋人の存在を公言し、二人でいる時は「どこにも貰い手のない不細工な仔猫ちゃん!」と呼んでいることを明かすはずである。

単語の反復利用について。アイデアを思いついても、それはすでに昔やったこととどこか似ている……創作を続けるアーティストが、遅かれ早かれ突き当たる問題であろう。当然のことだが、どんなアーティストでも一人の人間である。作りたいと思うものが、大きく変わることというのはそうそうあるものではない。無理に新しい表現を取り入れようとしても、上滑りに終わってしまうことだってたくさんあるだろう。そういったこと、いかに折り合いをつけるか。個人的には、スランプに陥るミュージシャンというのは、その壁の乗り越え方を見つけられていない状態なのだと思っている。映画や小説などの分野では、その辺り、開き直っている創作家のほうが多いような気がする。こういう話に足を踏み入れるとややこしくなる一方なのだけれど……。音楽というのは、小説や映画と比べて、その辺りがすごく不利な気がする。作品に詰まる素材の数というのがそもそも限られている。また、音楽は、他の芸術と比べて、繰り返し観賞されることを前提として作られている部分がある。(本や映画などは、ほとんどの場合二度目の鑑賞などされないことが多いだろう)それらに比べて、小説や映画などの物語作品は、作家のクセのようなものが見破られにくい側面があると思う。宮崎駿さんや村上春樹さんが、どれほど同じモチーフを繰り返そうとも、それを指摘し忌避する一般のファンというのはあまりいない。

小沢さん自身も、以前書いた

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という歌詞。アルバム『LIFE』に収録されている“東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー”において

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という歌詞を書いている。シチュエーションはほとんど同じだ。しかし、そのシチュエーションに持たせる意味や、楽曲のフィーリングには大きな違いがある。さらに、ソロでの1stにある“地上の夜”という曲においては、

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という歌詞までも存在している。カーブを曲がると海が見える、という場面でも、こうも違ったものになるというのは面白いことである。

僕が小沢健二さんに興味を持ったのは、SNOOZER誌が企画した「日本のロック/ポップ・アルバム究極の150枚」という特集の、53位に『LIFE』が、28位に『犬』がランクインしていたからだ。ここでもやはり田中宗一郎さんのコメントを引用したい。まず『犬』について「無数の記号と戯れ、知的なはぐらかしによって自分自身の虚無さえも煙に巻いた、無邪気な時代への決別。それゆえ、何度も象徴的に使われる「神様」という言葉。夜明け前の暗闇に静かに歩を進める、つたない足取りのような淡々としたリズム。それは、大いなる物語が失われた時代に、新たな物語の始まりを目論むという自らの暴挙に対する武者震いを思わせる。相対化の時代と絶対化の時代は交互に訪れるが、両者の間で揺れるこの作品は、今だからこそ、一つの指針になるだろう」

また、小沢健二さんの『LIFE』のレビューで「前年の『犬』で語るべきことはすべて語ってしまった後の、大いなる蛇足。この後、遂にしびれをきらし、かなり説明的に歌うことになる「喜びを他の誰かと分かりあう!/それだけがこの世を熱くする!」という言葉をアルバム1枚かけて鳴らしている。表層を滑る、眩いきらめきで溢れた甘美な1枚」と書いている。ここで引用された歌詞は“痛快ウキウキ通り”のものである。この『LIFE』のレビューこそ、僕がここで考えたい言葉だ。

僕は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が好きだ。好きな映画を三つ選べと言われたら、まずはこの作品を挙げる。劇場公開当時、合計で13回観に行った。大晦日限定上映と、地上波初放送を映画館で上映する回にも行ったので、全部合わせると15回観に行った。どこがどう好きか全て挙げてゆくときりがないのだけれど、テレビアニメ版のエヴァが自分にとって結構なトラウマ作品だったのに対して、その呪いの楔を引き抜いてもらえたような感覚があるから、破が好きなのだ。そして、その当時、「鬱ロック」という言葉が使われ始めたことや、浅野いにおさんの「ソラニン」が映画化されたことも自分の中ではけっこう胸糞悪い出来事だった。映画化される前後から、浅野いにおさんの名前を様々なところで見かけるようになり、「これが00年代」というような語られ方が蔓延していたのだ。(当時の、僕の狭い世界ではの話なのだろうけど)しかし、エヴァ破は、そういったムードに対するカウンターとしての機能があった。(少なくとも僕にとっては。その辺りを語りだすと本当にきりが無くなりますごめんなさい)
ところが、自分が心の師として仰いでいる田中宗一郎さんが、確かmixiで「エヴァ破、全然だめだったわ」と書いていたのだ。(原文見つけられず……)

あまりにもショックだったので、何かのイベントの時に、田中さんに直接話を聞いてみた。すると「あそこまで観客に降りていって説明してほしくなかった」と語ったのだ。エヴァンゲリオンという作品について説明するとかなり長くなってしまうので、要約する。とにかく人間関係におけるディスコミュニケーション、ディスコミュニケーション、ディスコミュニケーションの連続なのである。冷静になって観返してみると、登場人物たちの心のすれ違いなど、「これはちょっとわざとらしすぎるだろ」と思ってしまうところも、なくはない。しかし、95年にエヴァで描かれたコミュニケーション観というのが、アニメや漫画に与えた影響というのは計り知れないものがあるだろう。突然に悪意をむき出しにする登場人物であるとか……。

田中さんの小沢健二さんのレビューと、エヴァ破への否定的な見解については、共通しているところがある。前者は「しびれを切らしてかなり説明的に歌う」と評され、後者は「観客に対して降りていきすぎ」と語った。そして、そういった「表現者としての変遷」という側面から考えると、小沢健二さんと、エヴァの監督である庵野秀明さんも、似ているとは言えないだろうか。アーティストが、リスナーやファンに対して「降りていく」というということについて、少し書いていきたい。

まず、小沢健二さんの変遷。田中さんのコメントの「無数の記号と戯れ、知的なはぐらかしによって自分自身の虚無さえも煙に巻いた、無邪気な時代」とは、小沢さんがソロとしてデビューする前に組んでいたバンド、フリッパーズ・ギターのことを指しているのだろう。無数の記号とは、フリッパーズの音楽の多くが、過去のポップ・ミュージックからの引用で成り立っていたことを言っているはず。引用どころか、サンプリングもとても多かった。知的なはぐらかしという言葉が意味するところは……すみません、僕、フリッパーズはいまだにあまり聴かないので、ちゃんとわからないです!歌詞が本当に難しいですよ、なんだあれ……(僕は87年生まれなので、彼らが活躍した90年代初頭の空気を肌で感じることができなかった。それも理解が進まない理由の一つだとは思うのだけど……)ただ、彼らが残したオリジナルアルバムは3枚あるのだが、1stの時点では全ての歌詞が英語で書かれていた。2ndでは日本語詞になるものの、多くの曲は、なにかの映画のシーンをそのまま歌にしたかのような印象。(聴き込んだら、深い意味が隠されていたりするのだろうか……)フリッパーズを聴いたことがない人の為に、どれだけ意味わからん歌詞が多いか、いくつか歌詞の引用をしたい。

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“GOING ZERO”

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“GROOVE TUBE”

どうだろうか?小山田さんの場合は、「『エコバッグのアバディーンアンガス』とか、自分が歌った言葉をグーグルとかで調べてほしい」と公言している通り、『ファンファーレと熱狂』までは、歌詞に裏の意図を潜ませていた。そして、聴く人にそれを読み解いてもらうことを望んでいた。フリッパーズ時代の小沢さんには、そういった裏の意図があるのかどうかが、わからない。あったとして、それを、聴き手に読み取らせるレベルまで、かみ砕いた表現にしているのかどうか。

そしてフリッパーズ・ギターが解散した後、小沢さんはソロデビューし、『犬』を発表する。曲によってはホーンやストリングスを加えてはいるが、基本はシンプルなバンド演奏のみとなっている。(おそらく、フリッパーズ時代からのファンは驚かされたに違いない)歌詞については、フリッパーズの頃よりは分かりやすくなっている。僕はなんだか、村上春樹さんの作品のようだなぁとうっすら感じるところがあった。たとえばアルバム一曲目の“昨日と今日”の

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というあたり。かなりタフというか、ハードボイルドな感じがして、どこか村上春樹さんのようだなぁと思っていたのだけど、小沢さんは東大でアメリカ文学を学んでいたらしい。小沢さんが村上さんから影響を受けたわけではなく、二人が影響を受けた文や作品が、いくつか共通しているのかもしれない。一度聴いて「楽曲のテーマは○○だな」と結論に至れるほどではないにしろ、フリッパーズ時代と比べれば、かなり理解しやすい言葉がつづられるようになっているのは確かだろう。また、アルバム最終曲の“ローラースケート・パーク”に

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というラインがあるが、これなどは楽曲の変化をかなり象徴的に表現していると思う。小沢さんは読書家であり、映画や音楽などの文化にも親しんでいて、しかも東大の英文科で学んでいたような人である。そんな小沢さんが、それまでの「知的なはぐらかし」から、リスナーに意味が伝わるようなソングライティングへと変化したことを意味しているのだろう。この辺りの変化は、小山田さんにも当てはまると思う。

そして翌年、小沢さんは2ndアルバム『LIFE』を発表。楽曲はとにかくポップで明るく、軽い気持ちで聴けるものばかりになっている。歌詞も、これ以上ないくらい分かり易くなっている。歌われている事柄が小沢さんの経験から生まれたものなのかはわからない。しかし、曲の主人公の感情が、とても伝わりやすい言葉で歌われるようになっている。抽象的な表現を極力避けるようになり、(当時の)現代的な若者の生活がリアルに描写されるようになっている。政治的なメッセージなどはほぼ排除されており、あからさまな、物質社会肯定が描かれる。そしてどこか研ぎ澄まされた言葉の表現をする方向に目覚めたのではないか、という感じがする。具体的に小沢さんがいつごろから「王子様」化したのか、僕にはわからない……恥ずかしい話ですが……。しかし、このアルバムは、あまりにもきらびやかで、リプレゼント感にあふれていると思う。マジで。どの曲も恋愛についての曲だ。主人公と、ガールフレンドの歌ばかり。たまに、仲間との歌も入るという感じ。そしてその二人を囲む社会も、全体的に浮かれたムードである。本来ならば悲しさや辛さ、不幸な出来事として歌われることが多いモチーフも、楽曲のアレンジがそうは聴かせない。(おそらく)彼女のことを振る歌“いちょう並木のセレナーデ”は、

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なんていう歌詞だけれど、少し切ないアレンジがされており、アルバムでは一番ブルーな曲だとは思うのだが、曲が始まる前に観客の歓声や拍手を挿入することで、どこか演劇風、映画風な雰囲気を作り出している。そのことによって、聴き手がダイレクトに感傷的な気分に浸りきってしまわないような構造になっているのだ。そしてアルバムの後半、“ぼくらが旅に出る理由”は、別れの歌であるというのに、勇ましいホーンと清々しさのあるストリングスアレンジが施されていて、本当にさわやかな歌だ。(小山田さんに、こういう、前向きな別れの歌を作ってほしかったなぁ……)

この『LIFE』の発表の翌年、95年には5枚の新曲シングルを発表するが、96年の3rsアルバムには収録されなかった。それどころか、そのアルバムは、それまでの洋楽ポップスや日本の歌謡曲からの引用を中心としていたスタイルから、ジャズ調に一新された。そして95年のシングル群は、8年後の03年にアルバム未収録曲集『刹那』が出るまで、アルバムに収められることはなかった。(この辺りの、ダイレクトな音楽性の変化について、僕は詳しく知らない……)この95年に発表されたシングル群に、田中さんが挙げた“痛快ウキウキ通り”が入ってくるわけである。しかもここでは

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という歌詞まである。さらに、本人による作詞作曲ではないが、CMソング“カローラⅡに乗って”なんていうシングルを出してヒットを飛ばしている。このあたりの、日本の好景気に乗っかる姿勢などは、後になって反動を生んだとも思うのだが……。この辺りは、小山田さんとは大きく異なるところ。まぁ経済的に斜陽を迎えているということもあるだろうけれど。個人的には、小山田さんの性分というのは、フィッシュマンズの佐藤伸治さんのフーテン的な部分を受け継いでいるような気がする。

話をもどそう。『LIFE』と比べても、ソングライティングの手法が変化している。伝えたいことを直接言葉にしているのである。『犬』と『LIFE』の間でも違いは起こっている。前者では、物語のワンシーンをそのまま切り取ったかのような、ある意味「脚本」のような作りになっているものが多い。あるシーンを俯瞰してみて、目に映ったことをそのまま言葉にしているかのような。もちろん、意味のある部分しか描写はしていない。しかし『LIFE』においては、そこに作者≒主人公の主観、心のうちが語られるようになった。それはどこか、楽曲のテーマや、主人公≒小沢さんが、日々を生きる中で得た教訓や、見つけた本質のような言葉を、そのまま歌詞にするということである。『LIFE』の言葉をいくつか引用する。

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“愛し愛されて生きるのさ”

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“ラブリー”

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“ぼくらが旅に出る理由”

こういった感じである。もちろん、これらの抜粋した歌詞の前後には、物語がある。しかし『犬』と比べると、やはり三人称の曲よりも一人称の曲が増えているように思う。(これはまた、日本の文学と英米の文学における大きな違いがあらわれているように思う。小沢さんが愛好していた英米の文学とは違い、日本の文学・小説は圧倒的に一人称で描かれるものが多い)続いて、95年のシングル群から歌詞を抜粋する。

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“痛快ウキウキ通り”

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“流れ星ビバップ(流星ビバップ)”

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“さよならなんて云えないよ”

どうだろうか?『LIFE』と95年の曲群は、大きな違いが生まれているわけではないと思う。しかし、微妙なところかもしれないが、95年の曲のほうが、どこか達観の度が強まっている気がしないだろうか。(もちろん、その変化を批判する気はまったくない。歴は浅いけれど小沢さんのことは大好きだ)特に「目に見える全てが優しさと はるかな君に伝えて」、「嫌になるほど誰かを知ることはもう2度と無い気がしてる」、田中さんも挙げた「喜びを他の誰かと分かりあう それだけがこの世の中を熱くする」など。

次に、庵野さんの変遷。(今の時点で記事が長すぎることは承知しているけれど、僕個人の問題で、このまま書かせてもらう)一番最初のエントリで名前を挙げた岡田斗司夫さんとGAINAXを共に設立した人物でもあり、アニメーター、脚本家、演出家として知られているだろう。そんな庵野さんの仕事として、一般的に広く認知されているものといえば、監督と脚本を務めた『新世紀エヴァンゲリオン』だろう。(それ以前の経歴については省きます!!)

エヴァンゲリオンについて書き出すと止まらなくなるので、とりあえず小山田さんと小沢さんとの共通項抜き出す形で収めることにする。エヴァを特徴づけるのは、特撮とロボットアニメを融合させたようなデザイン、キリスト教からの引用をちりばめた宗教的な世界観(もちろん、宗教的モチーフとSFの融合というのは新しいものでもなんでもない)、「大人が不在」とも言われる生々しくて痛い人間関係ではないだろうか。これらは、監督である庵野秀明さん自身が抱える混沌をそのまま叩き付けたようなものだ。それゆえに、未だに凄まじい数の支持者を抱えているとも思うのだけど……。(ちなみに田中さんも「まず、エヴァのデザインがむちゃくちゃかっこよかったよね」と語っていました)

エヴァンゲリオンが当時社会現象と呼ばれるまでのブームとなった要因の一つに、「作中で解明されない謎が多い」ということがあったようだ。SF作品なので、作中に登場する架空の生物や技術などをマニアが語ることは珍しくはない。しかしエヴァではこれらに加えて、敵がどこから現れるのか、それらの殲滅を目的とする主人公たちの組織がどういったものなのかが、明かされない。それどころか登場人物たちの行動の動機もあまり語られることはなく、主人公はそんなところに何も知らされずに放り込まれてしまうのだ。そもそも世界観からして謎だらけなのだが、中盤からは解説しようという気がもはやうかがえないレベルになってきて、視聴者たちは置いてきぼりを食らってしまう。もちろん製作者の間では理解が行き届いているのだろうけれど、視聴者たちは提示された作品から読み取るしかなく、それには膨大な科学知識と宗教の知識が必要になるのである。エヴァンゲリオンは放送された時間帯が、そもそも平日の夕方なので、小学生から十代の若者も普通に観ていたのだ。そしてエヴァを観た多くの人たちは、解明できない謎に頭を抱えることになるのである。これは前述したように、田中さんが小沢さんの『犬』で書いた「無数の記号と戯れ、知的なはぐらかしによって自分自身の虚無さえも煙に巻いた」という言葉。これは、エヴァンゲリオンという作品にもピタリと当てはまる言葉ではないだろうか。

シナリオのテクニックとして「マクガフィン」という有名なものがある。初期のandymoriや小沢健二さんのソングライティングにも通じることなので少し書かせてもらうと、マクガフィンとは映画監督のヒッチコックが使い始めた言葉である。ヒッチコック氏が一人で列車に乗っていた時のこと。近くに座る二人組の乗客の話声が聞こえてくるのだが、彼らは「マクガフィン」について話をしている。ヒッチコック氏はマクガフィンが何なのかを知らない。しかし二人は、そのマクガフィンについて当たり前のように話し合っている。結局ヒッチコック氏は、そのマクガフィンが一体何なのかを知ることはできなかった、という話。つまりマクガフィンとはシナリオのテクニックとしては、「登場人物がさも当たり前にAについての話をしているが、観客はそのAが何なのかを知らない、敢えて説明をしない」というものだ。多くの物語作品は、作品に読み手がすんなりと入ってこれるように、わかりやすく説明を加えたりするものだ。しかし、確かに現実の世界においては、自分が質問をしなければ詳しいことを教えてもらえないことの方が多い。エヴァにおける、詳しく説明されない手法などはまさにこれなのだけれど、これまでその手法に触れずに育ってきた若い人たちからすると「なんだこの作品は!」ということになるのである(良くも悪くも)。アンディモリの“モンゴロイド・ブルース”や“シティ・ライツ”をはじめとして、多くの楽曲が、一般の人が知らない言葉が使われていても説明などされない。小沢さんの楽曲も思考の過程をそのまま文字にしたような、一リスナーではすぐに呑みこめない言葉が並ぶものになっている。(多くの人は、頭の中では「抽象的」に考えて、人に伝えようとするときに「具体的」な言葉に置き換えるという流れを経ると思う)こういった、謎を膨大にちりばめておいて、それに答えるつもりがないことを、「シニフィアンの過剰」というらしい。宮台真司さん談。

そして2006年に「新劇場版」の制作が発表され、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」が2007年に公開される。リビルドと銘打たれているものの、テレビ版のエヴァのリメイクと目される作品である。その際に、庵野秀明監督が「我々は再び、何を作ろうとしているのか?」という題の所信表明を出した。その文章から文章を抜粋するが、明確に「降りていく」という宣言になっていることがわかるだろう。

本来アニメーションを支えるファン層であるべき中高生のアニメ離れが加速していく中、彼らに向けた作品が必要だと感じます。

(andymoriとは関係ないけど、この、庵野秀明さんが書いた「所信表明」本当に感動的なので、ぜひ読んでみてほしいです)

そして2009年に公開された第二部作品『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は、ネタバレも含んでしまうのでちょっと言葉を濁さなければならないのだが、テレビアニメ版と比べると非常に「分かりやすく」なっている。ここだけは言を強めて言わせてもらうけれど、「私は死んでも代わりはいるもの」というテレビアニメ版においてかなりのインパクトを残したセリフ。これに対して、明確な否定がなされている。それも、思考の過程を長く語ることなどなく。これ以上詳しく語ることは、まだ作品を観ていない人から楽しみを奪うことになるので控えるけれど、とにかくわかりやすく、かつ力強く否定されるのだ。(「私は死んでも代わりはいるもの」とは、かなり哲学的な問題に繋がる考えだろう。小山田さんが繰り返し繰り返し叫んできた「アイデンティティーを捨てろ」という言葉は、つまり、「いくらでも代わりのいる存在になれ」とも言えると思う)

表現者が、受け手に伝わるように、降りていくということ。本来ならばそんな野暮な真似をしたくはないと思いつつも、メッセージをかみ砕いて誰にでもわかるような形で表現をする。「分かりやすくする」ということは、表現者にとって、どういうことなのか。誰にでもわかる言葉にしてしまうということは、簡単にできることはない。しかし芸術性とメッセージ性を両立させようとすると、大衆には伝わらない。理解してもらうことができない。そういったジレンマと常に戦うのが芸術家であると思う。(芸術家とエンターテイナーは、似ているようで少し違う)自分たちは、芸術によって表現するという道を、自ら進んで選んだはず。小山田さんと小沢さんは「音楽」で、庵野さんは「アニメーション」で。それなのに、芸術表現では「伝わらない、届かない」ということが起きてしまう。これは、小山田さんも小沢さんも庵野さんも言葉にはしていないけれど、本当なら、その「芸術表現でこそ伝えたい」という気持ちが強くはないだろうか。自分の思いを細大漏らさずに伝えたい……そう思って、言葉をより正確に、受け取り間違いが起こらないように……つまり具体的にしていく。それは、自分が心を打たれ、
なによりも、小山田さんと小沢さんは音楽に影響を受け、愛好していたからこそ、音楽家という道を選んだはずだし、庵野さんはアニメーションの道を選んだはずだ。自分が表現したいという衝動と、理解を得たいという気持ちの折衷点を探す。しかし、自分の表現を受け取る人間が増えていくと、やはり「誰にでもわかる形で、直接的に言葉にする」という手段をとってしまう。そうすると、受け手の解釈の幅が狭まって行ってしまう。もはやそれでは、芸術家ではなく、ただの思想家ではないだろうか。社会学者や政治家のすることではないだろうか、という話。たとえば、僕はピカソの『ゲルニカ』という絵画を、中学校の歴史の教科書で見た時に「なんだこれ、意味わかんねー、ぐちゃぐちゃなだけじゃん」としか思わなかった。もちろん、僕が芸術への関心も知識も人より弱いということもあるとは思うのだが、それでも、「芸術におけるメッセージ性」を理解できない人の方が圧倒的に多数なのではないだろうか?(絵画などの美術に関しては、今でも弱い。)

捕捉になるかどうかはわからないが、小沢さんと庵野さんの、その後について書きたい。あくまで僕個人の見方になるので、誤りがある際は指摘してほしいし、ただの思い違いだと思うようなら無視してくれてかまわない。ただ、一つの事実として、どちらも「沈黙の時期」を迎えてしまう傾向にあるというのは確かなこととして言うことができると思う。

小沢さんは95年のシングル群をアルバムに収録することなく、96年に全編ジャズ調のアルバム『球体の奏でる音楽』を発表する。もちろん楽曲も、歌詞も素晴らしいし、小沢さんらしさが随所にみられる作品になってはいるのだが、『LIFE』と95年のシングルと比べると、どこか落ち着いた印象がある。それは「王子様」という神輿から降りたということだろう。そしてアルバム発表後、97年に発表された2枚のシングルに着目したい。『Buddy/恋しくて』と『ある光』という作品である。前者は“恋しくて”という楽曲が、かなり切ない曲。もう戻れない時間についての歌。(なんと小山田さんが好みそうな題材だろうか)楽曲自体は、『LIFE』や95年期からは想像できないほどシンプル。楽曲のフィーリングも、かなり抒情的。歌詞の雰囲気だけでも伝えたいので、


恋しくて

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「長すぎる春」という言葉が示す通り、これは、モラトリアム期を振り返る歌だ。いくつか引用してきた歌詞からもわかる通り、小沢さんの歌詞には、「モラトリアム期を振り返る」というモチーフが頻出している。悲しみや切なさや辛さも、明るくポジティヴなデコレーションを施して歌にするというスタンスは、ここでは見られなくなっている。(そもそもそういうスタンスを意識していたのかどうかは、僕にはわからないが……もっとインタビューなどを読み込めていればよかった)

そして97年の終わりにリリースされた“ある光”。こちらも、暗いとは言わないけれど、やはり、明るいとは言えない楽曲になっている。小沢さんはコード進行などを強く意識しながら曲を作っていたようなので(つまり音楽の素人ではない)、明るいフィーリングを持った曲にしようと思えばできたはずである。歌詞の一部を抜粋する。

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楽曲の中で何度も何度も歌われる「なぐさめてしまわずに」という言葉が持つ力という者は計り知れないと思う。誰かになぐさめられることなく自分一人で立ち上がるという経験が、人を強くさせるということはありはしないだろうか。小沢さんのインタビューなどはあまり読み込むことができていないだが、学生時代の恋愛経験の話を読む限りでは、小沢さんはけっこうつらい想いをしていたように思える。その時に、誰かが差し伸べてくれた手がなかったり、宗教による救済がなかったりすると、人は、自分の力で何とかしようと奮闘するということはないだろうか。本を読んで知識を付けたり、映画や音楽や小説や漫画などの娯楽や芸術に触れることで感動したり自分を重ね合わせたり、あるいは自分の抱える苦悶を忘れさせてくれる人や共有できる人やとの出会いを求めたり、など……。時に「なぐさめ」というものは、いっときだけ人の心を緩めてくれるかもしれないが、それは悲しみや苦しみに対する耐性を作ることを阻んではいないだろうか。

そしてその後、小沢さんは、小説(童話?)『うさぎ!』などを通して直接的に政治的なメッセージを発信していっている。これは、ある意味、物質社会に乗ろうとした反動が表れているのではないかと思う。自分の中の、ある一面を抑え込んで、極端な表現をすることは、後に反動を生むことが多いのではないかと僕は思う。そしてそれは、小山田さんにも庵野さんにも言えることだ。

そして、庵野秀明さん。件の『破』から3年後に『Q』を公開する。Qの評価については賛否両論あると思うのだけど、僕自身が考えたことの中で、小沢健二さんと似ている点を抽出することで収めることにする。まず内容が支離滅裂になっている。テレビアニメ版や90年代の劇場版と似ているという人がいるけれど、まず脚本がグダグダになっている。各人物の行動理由などが全くわからないし、そのわからなさが、「早く解かれてほしい」という気持ちにすらつながらない。テレビ版における、人物の行動は、まだ険悪な人間関係の表現として納得のいく範疇だったのだが、こちらではちょっと意味が分からないレベルになってしまっていてかなり乱暴なのだ。ドラマを作りにあたり仕方がない部分あったのだとは思うが。Qはドラマがつまらないというか、ひどいレベルに落ちていると思う……。しかもQでは、単純に、「主人公に何の説明もされない」ことに、意味がない。テレビ版および旧劇場版のスタイルをセルフパロディしているようにしか思えない。物語の熱量が単に低くなってしまっている。『破』などは、主人公たちが闘わなければならない理由が明瞭になっており、戦闘シーンにおける観客の感情移入は否が応にも強まるようにできていた。それに対してQの戦闘シーンなどはほぼ意味不明。(説明が雑すぎて申し訳ない……)

小沢さんの97年以降の活動と、庵野さんの『破』以降とは、個人的にはとても似ているように思うのだ。全力で、人生や世界の素晴らしさを描こうとしたのちに起こる反動とでも言おうか……。そしてそれは、全力でこの世界や人生を肯定しようとした人は、その後に反動が襲ってくるということではないかと思う。エヴァの場合は、震災と原発をテーマに盛り込もうとしてしまった面も強いとは思うのだけど……。(宮崎駿さんが震災後のインタビューで語ったところによると、庵野監督は「何をやっていいのかわからなくなった」と漏らしていたという)

そして、この二人のたどった道というのは、アンディモリにも当てはまることだと思う。

僕は『革命』『光』の二作品に対しては、かなり否定的な見解を持っている。なので両作品のファンの方には不快な思いをさせてしまうかもしれない。僕はアーティストの変化を追っていくのが好きだ。米国のシンガーソングライター、コバー・オバーストのプロジェクトであるブライト・アイズなどもそうで、彼は本当に苦痛にまみれた曲を多く作っていたが、『カッサダーガ』というアルバムではかなり陽性に振り切った。それは彼がキリスト系コミュニティに安楽の場を見つけたということで起きた変化であった。また、北海道のヒップホップユニットであるザ・ブルーハーブなどもそうで、はじめはJポップに取り込まれたラップなどに対する怒りを原動力に音楽を作っていた彼らが、次第に慈愛やぬくもりを帯びたメッセージを発していく様には感動したものだった。アンディモリのメッセージ性の変化も、そういった、やさしさや光に向かっていく過程を追ったドキュメントと取れなくもない。この次のアルバムも、明るい作品であったならば。けれど現実は、そうはならなかった。それはどこか、syrup16gの変化とも似ている。(シロップについては、後日エントリをアップする予定)

各アルバムの項で何度も書いているが、あらためて僕の解釈を一言でまとめていく。

1stは小山田さんが、大学時代から24歳くらいまでの「モラトリアム期」の決算として作られたレコード。

2ndはSFコンセプトアルバムで、小山田さんが今の日本社会や世界情勢などのメッセージを込めたきわめて政治的な作品。と同時に、小山田さんが自分自身に向けたメッセージをもひそませているという、音楽史上まれにみる傑作となっている。

そして3rdでは、そういった社会的なメッセージが「届かなかった」ということに小山田さんは打ちひしがれていた。何度も書くが、小山田さんは、「社会的なメッセージを読み取って、グーグルなどで調べてほしかった」とインタビューで語っているのだ。

本作『光』では、作品に政治的なメッセージを込めることはやめ、言葉は額面通りに受け取って齟齬がないようなレベルまで純化された。そしてネガティヴなことなどはあまり歌われないようになった。それはどこか、日本の平凡なロックバンド化したように思えてしまう……こう言うと怒る人はたくさんいると思うのだけど……。そして、そういった矯正にも似た表現をした結果が、合法ハーブの吸引などの騒動であり、心に抱える闇を全て吐き出すかのような『宇宙の果てはこの目の前に』というアルバムであり、飛び降りによる自殺未遂であると僕は考えている。この辺りについての詳しい話は、次のエントリ『宇宙の果てはこの目の前に』でできればと思っている。

さて、思っていたよりも小沢健二さんと庵野秀明さんの話が長くなってしまったし、思いのほか上手く書くことができなかったけれど、以上がアルバム『光』と、僕が勝手に考えたアルバム制作周辺事情である。

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