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僕が音楽を好きになったきっかけは中学2年生の時に知ったリンプ・ビズキットだった。その後はオフスプリングやグリーン・デイなどのパンクを聴いた。この辺のバンドは、今でも月に一度は聴く。

高校に入るとロッキング・オンとクロス・ビートを購読するようになり、ロックンロール・リヴァイヴァル期に登場したバンドを追いながら、レディオヘッドやオアシス、ウィーザーやニルヴァーナなど1世代前のロックも掘るようになった。高校3年の冬頃までは「日本の音楽なんてダサイのばっか」が信条の典型的な洋楽専門のリスナーだった。そんな僕が初めて熱烈に引き付けられた日本のロックバンドが、シロップ16gだった。今考えるとシロップを知るまでの僕は現実逃避のために音楽を聴いていたので、理解で きる言語で歌われている音楽は求めていなかったのだと思う。裕福とは言い難い家庭で育ち、のちに精神病院に措置入院させられる兄から日常的に暴力を受け、偏差値が低く不細工な顔の僕は、愛とかキミとか希望とか救いとか大丈夫とか、そんな言葉が嫌いだった。日本のロックは僕にとって信じられないようなことばかり歌っていると思っていたので、とにかく聴かなかった。まぁ日本の音楽=オリコン・チャートという浅はかな認識をしていた頃の話ではあるのだが、シロップの歌詞にまとわりつく諦念や劣等感や孤独や憎しみには同調できた。無根拠で楽観的な言葉など無かったし、救済されることを前提とした苦悩も無かった。今でも、シロップっぽい音楽は好きになれない場合が多いが、シロップ自体は好きだ。

彼らは2008年に解散したが、いまだに熱心なファンが「いかに彼らの作品に救われたか」を触れまわっているし、シロップごっこに興じているバンドは多いので、彼らに興味を持つきっかけはそこら中にあることだろう。だが個人的には、このバンドをこれから聴き始めることは薦めない。オチを言ってしまえば、彼らを追いかけても、絶望が待っているだけだ。ギター&ヴォーカルで全ての曲を書き、アレンジ面でも指揮を執っていた五十嵐隆さんがこのバンドのあとに結成した「犬が吠える」というバンドも、音源発表を待たずに解散している。その後シロップのBOXセットや旧作の再販などがあったが、五十嵐さんは現在まで沈黙を保ったままだ。もしあなたがシロップをこれから聴き始めるつもりなのであれば、 相応の覚悟をしておくべきだ。彼の書いた曲の中に希望を見出したとしても、彼自身は何一つ救われていないのだ。ただ、あなたがあなたの人生を愛すことが出来なくなってしまった時、もしかすると彼らの存在があなたのために役立つことがあるかもしれない。


a complete unknown

シロップの特徴として、スミスやポリスなどの英国ロック・バンドから受け継がれた強烈なシニシズムとリアリズムが挙げられるだろう。曲の主人公のほとんどは、社会不適合者である。だが、抽象的に愚痴を並べていくわけでも、問題から目をそむけてボクとキミだけの世界へ逃避するでもなく、この社会の病理を、そこで暮らす人間の心の闇を冷徹な眼差しで描いていく。

つらい事ばかりで
心も枯れて
あきらめるのにも慣れて
したいことも無くて
する気も無いなら
無理して生きてる事も無い
“明日を落としても”

君に存在価値はあるのか
そしてその根拠とは何だ
“生活”

下らないこと言ってないで早く働けよ
無駄にいいもんばかり食わされて腹出てるぜ
“手首”

シロップのオリコン・チャートの裏側的な面が強く打ち出されている詞を引用したが、このように聴く者に対して問いかける楽曲であっても、これだけはっきりとした言葉である。言葉にすることの出来なかった感情を親しみやすいメロディと残酷極まりない歌詞で表現した楽曲は、若いロック・リスナーから熱狂的に受け入れられた。僕がシロップを聴くようになった2005年頃には、すでにライヴのチケットは即完売が当たり前だったし、オークションでは高値で売買されていた。

僕が初めて聴いたシロップの作品は、4枚目のアルバム『ヘルシー』だった。手に入れる半年ほど前から彼らの作品を聴きたいとは思っていて、東京に出かけるたびに探していたのだが、全然見つからなかった。この時期というのは、それまで矢継ぎ早に作品をリリースしていたバンドが、活動にひと区切りを入れたところだった。ぽつぽつとライヴは行うものの、結局音源の発表は3年半後になるので、おそらく一番中古が出回っていない時期だったのだろう。新品を見つけることはたやすかったが、とにかく僕は慢性的に金が無かったので、東京に行くときは山手線圏内であれば乗り降り自由な切符を買って、1円でも安く買える店を探した。だがあるとき、『ヘルシー』の価格がフルアルバムであるにもかかわらず1 500円だということに気付いた。しかも、出来も悪くないらしい。そしてなんと変な名前の作品だろう。当時の僕は「健康」と「地獄の海」というダブル・ミーニングと解釈した。前者は正解だが、後者は「地獄を見る」の誤りである。安かったし、とりあえず買ってみることにした。のちに知ることになるのだが、この価格は五十嵐さんの要望により、制作費用を抑えに抑えることによって実現したものだったらしい。ただ、現在入手できるリマスター版は通常のCDアルバムとあまり変わらない価格で販売されているので注意が必要。だいぶ耳馴染みの良い音質になっていると聴くのですが僕は未聴です。僕の中でのヘルシーはあの音だからイメージが崩れてしまうのが嫌だし、『ヘルシー』は限定版を見かけるたび に購入しているので現在4枚も所持している状態なので、なんか手が伸びない。


HELL−SEE

当時の僕は日本のロックのサビで盛り上げようとするところや、ヴォーカルの声が大きめに調整されているところがどうにも慣れなかったのだが、『ヘルシー』の曲の構成やサウンドプロダクションには、日本のロック特有のクセが付いておらず、当時の僕の耳でもすんなり聴くことが出来たのを覚えている。実際に曲を聴くまではフロント・マンの名前から、柔道家のようなゴツイお兄さんが野太い声で叫びまくっている姿を想像していたが、五十嵐さんはやる気がなさそうで、でもどこか優しい声で歌っていた。メロディの付け方が上手かったし、抽象的な表現をしながらも、今にも自殺してしまうのではないかと思ってしまうほどの強い後悔を歌った曲などもあり、とにかく衝撃的だった。“不眠症”に顕著だ が、五十嵐さんはやるせないほどに苦悩を抱え込んでおり、そこにはあまりにも救いが無い。過剰に自虐して悲劇の主人公を気取りたがるバンドマンは多いけれど、この人は違うと直感的に思った。

今作のメロディやアレンジはポリスの諸作をひな形としており、少なくとも“イエロウ”、“ローラーメット”、“ex.人間”は引用元まんまである。「引用」「インスパイア」「盗作」なんて言い方は違ってもやっていることは同じだ。だが五十嵐さんはいつでも引用したことを公言していたし、自分なりのルールにのっとってそれを行っているようだった。僕は引用元の楽曲を聴いてもなお、五十嵐さんの書いた曲の輝きが失われたようには感じなかった。むしろ、「人はみな、醜く孤独だ」というメッセージを聴く者に刷り込むかの如く打ち出していたポリスの作品を地獄とするなら、そこから恐る恐るでも1歩踏み出して這いずってでも生きていこうとしているのがシロップだったのだと思う。「それはほんとに 、なんてことなかったんだよ」と、社会に順応しなければならないという強迫観念に駆られてブタのような女と結婚しようとしている男に対して歌いかけたスミスではなく、ポリスを引用したのは、彼らが孤高のポジションからクールに毒だけを吐き出し続けたからだろうそのポリスの最終作を「行き止まりまで行ってしまった作品」と五十嵐さんは語った。パンク・バンドの皮を被ってデビューした彼らが商業的成功をおさめ、音楽的な制約を解いて出しつくしたアルバムであるということもそうだし、アルバムが後半に進むにつれて閉じてゆくような構成になっているということもそうだ。それを五十嵐さんは、当時の日本、そして自分自身に合わせて再構築した。一例を挙げると、“ex.人間”は「いつでもお前 を見ているぞ」と歌う“見つめていたい”が原型だ。だが歌われる内容は、


Hatful of Hollow


Synchronicity

愛されたいだけ
汚れた人間です
卑怯モンと呼ばれて
特に差し支えないようです

道だって答えます
親切な人間です
でも遠くで人が
死んでも気にしないです
“ex.人間”

という、感情やエゴ男を押し殺しながら、死んではいないがただ生きているだけの男の歌になっている。だが

少し何か入れないと
体に障ると彼女は言った
今度来る時電話して
美味しいお蕎麦屋さん
見つけたから
今度行こう

と、その男を思い遣る「彼女」が存在している。その「彼女」に対する男の感情が描かれない辺りに不穏な解釈の余地があるが、地に足を付けながら日常の中に生きる意味や喜びを見出そうという、このアルバムにおいても、またシロップ16gにおいてもターニング・ポイントとなる1曲だと言える。最終曲“パレード”は、どこか退廃的なイメージの言葉も多いが、陽性のコードのイントロから「ありがとう」という歌い出しで始まる。「ありがとうなんて言うのは自分らしくない」とは本人の談だが、それは彼にも変化が訪れていたことの表れだろう。五十嵐さんが「初めて聴く人のことを意識するようになった」と語る作品だけのことはあり、真っ暗な闇に朝陽が漏れ出したような印象でアルバムは終わる。とても 美しい作品だ。だが、

これは僕の作品です
愛すべき作品です
誰に何言われても
恐いものなどありません
“ex.人間”

すべてを晒すことは
割り切っているから平気なんだ。
時々空しいのは
向いてないかなって思う時だけ
“吐く血”

という言葉を忍ばせてくるあたり、やはりバンドの末路はしかるべきものであったように思う。

それ以降は、発表されている音源はほとんど集めた。人が特定の音楽家に心酔するのは、自分が常々感じてはいたが言葉にできずにいた感情を歌いあげてくれた時であったり、うっぷんを吹きとばしたり包みこんだりしてくれる音楽を作っていたり、容姿や言動がかっこ良かったりする場合だと思うが、五十嵐さんは僕にとってドンピシャだった。頑張ることのできない自分、適応できない自分を容認してもらえたような気がしたのだ。1stの『コピー』と2ndの『クーデター』を聴いて思ったのは、怒ったり悲しんだり忙しい人だな、ということ。それぞれ「媚び」と「食う、出た」のもじりだろうか。『コピー』は、全体的にメランコリックな曲調が多く、とにかくなに1つとして希望が提示されない作品だった。のち に「日本という国はあらゆる意味で終わっています」と断言する五十嵐さんならではの現状認識が、おそろしくネガティヴな形で表現されたアルバムだ。聴き始めるなら、ここから発表された順に手に取ってゆくのがベスト。


COPY

対する『クーデター』はそううつ病的なアルバムで、攻撃的な曲が増え、湧き出る憎悪をそのまま叩きつけるかのような歌詞も現れ出した。本作でメジャー・デビューということもあり資金が潤沢になったのか、3ピースながらも音作りに凝ったアルバムとなっている。白眉なのが最終曲“汚れたいだけ”。初期ザ・キュアーにシューゲイザーをまぶしたような曲調で、歌詞もキュアーなみに残酷。これほどまでに生々しく克明に自己嫌悪を吐露する曲を、他の誰が書いただろうか。曲名からして、メンヘラ女の餌食となってしかるべきだったのかもしれないが、母親と良好な関係を築けなかったという五十嵐さんが歌うと、幼少期の体験が人に及ぼす影響というものについて考えさせられてしまう。この曲で歌われる 「あなた」を、離婚して、自分を引き取らなかった母親に当てはめて読んでみると、興味深いものになる。


coup d’Etat

3rd『ディレイド』。タイトルはデビュー時に20代半ばを過ぎていた自分たちを揶揄したのだろうか。デビュー前から書き溜めていた未発表曲の詰め合わせである。ソングライターとしての五十嵐さんの資質を証明する作品ではあるが、正直な話、あまり好きな作品ではない。“センチメンタル”は好きだけど、ダウナーに持って行こうとし過ぎている感がある。まぁ、

いつかできんだ
いつでもいいんだ
どうでもいいんだ
明日また熱出そう
寝不足だって言ってんの

と歌う“落堕”を聴くためだけにでも手に取る価値はあると思う。こんな歌詞を他の誰が書き得ただろう。絶対に言ってはいけないことだろう、それ。たまに親父ギャグの域を出ないこともあるが、こういった言葉遊びの巧みさで五十嵐さんの右に出る者はいない。また、“リボーン”はファンからの人気も高く、解散公演で最後に演奏されたほどだが、実際は五十嵐本人が「リアリティがないので好きではない」と語った曲である。世に放った時点で、作品は作った人間の手を離れ、それを鑑賞する人間によってそれぞれ異なった形で解釈されることになる。そもそも五十嵐さんは「意味から逃げるために音楽を聴くのに、音楽に意味を求めるということがわからない」と語っていた。少なくとも彼は音楽に救われ るなどという経験はしていなかったし、自分の作る音楽が誰かを笑顔にできるなんて考えたこともなかった。五十嵐さんには自己陶酔やアーティスト的な優越感などなかったし、誰かの代弁者になるつもりも無かった。シロップとファン層が被りがちなミュージシャンや漫画家と違うのは、そこだ。カート・コバーンと一緒なのもそこ。「自虐」ではなく「自嘲」の人なのだ。僕は“リボーン”みたいに安易な答えのようなものや救いを提示する曲は、好きになれない。ぬるすぎるよ。


delayed

そして『ヘルシー』を挟み、EP『My Song』を発表。

ニュースは毎朝見る
ところで思うんだが
占いのコーナーってあれ何?
これから眠るのに
最悪とか言われて
けっこう感じ悪いんですけど

というひねくれたユーモアが全開の詞から始まる“タクシードライバー・ブラインドネス”と、かつて世界を変えた男の曲名を拝借し、音楽が大きな夢を描くことが出来なくなった時代における幸福を歌う“イマジン”。この2曲を聴くためだけにでも、この作品は手に取るべきだ。やはり五十嵐さんは、短い文章の中に、曲を理解するために必要な情報を詰め込んでいく技術に長けている。そこがシロップが広く受け入れられた1つの要因だろう。


パープルムカデ/My Song

5th『マウス・トゥ・マウス』。五十嵐さんのポップ・ミュージシャンとしての才能が完全に開花した作品だ。もはやミスター・チルドレンのようなポジションに上り詰めることすら難しくなかっただろう。1曲目の“実弾”でアグレッシヴなガレージ・ロックを鳴らしたかと思えば、3曲目“うお座”では静謐なストリングスを取り入れて楽曲を盛り立てる。5曲目の“My Song”では、あまりにストレートなラブソングを歌ってみせる。最終曲“ユア・アイズ・クローズド”は、穏やかな曲調に、バンド名の元ネタと思しきレディオヘッドの“クリープ”を思わせる構成で、

愛しかないとか思っちゃうヤバイ
抱きしめてると死んでもいいやって
たまに思うんだ

と荒々しく叫ぶ。「生きてて良かった」ではなく「死んでもいいや」なのが、五十嵐さんらしい。どこか一抜けしてしまっていた感のある“リボーン”は正直未だに聴けないが、

お前にこの一生捧げよう
必要なくなって
見捨てられるまで
“リアル”

知りたくもない自分とやらに
向き合うことしかない
きっと

逃げたいキレたい時もある
別れを告げたい時もくる
“I・N・M”

本能を無視すれば
明日死んじまっても
別に構わない
本気でいらないんだ
幸せはヤバいんだ
“夢”

なんて歌っていた男がこの曲のように歌う。「地獄を見た」男が、こんなささやかな幸福をアルバムの最終曲に配置するということが、とにかく聴いた当時は感動的だった。その後純粋な新作はしばらく滞っていても、聴いた当初はきれいな形で締められているように思えていた。まぁ、それでもやはり

どうしてみんな
そんなに
そうやって
自由なんか欲しがる
悲しいぐらいに
満たされたこの世界で
“夢”

生きんのがつらいとか
しんどいとか
めんどくさいとか
そんな事が言いたくて
えっらそうに言いたくて
二酸化炭素吐いてんじゃねえよ
“メリモ”

と歌うのも五十嵐さんなのだが。シロップが1つの物語であるならば、ここで幕引きにして、観客を帰してやるべきだった。だが、現実というのは、幸福の絶頂で終わってくれるほど甘くはない。人生は死ぬまで続く。


Mouth to Mouse

6th『ディレイデッド』。再び未発表楽曲の詰め合わせである。前作のあまりにポップな仕上がりに本人も違和感が合ったようで、歌詞は黒い面が強調され、鋭いギター・ロックが多めに収録されている。少々雑多すぎる感があるが、フーの“ピンボール・ウィザード”に似たリフを掻き鳴らす“翌日”はかなり爽やか。朋友であるバンプ・オブ・チキンが歌っていても違和感は無いだろう。“オンリー・ロンリー・グローリー”ともイントロがそっくりだし。肩の力が抜けた、ネタ的な“アイ・ヘイト・ミュージック”も、悪くない。だが、この時点で、五十嵐さんの中に強く迷いが生じていた。(ここに『ディレイデッド』をお願いします)ここから、シロップの活動は年に数回ライヴを行うのみとなる。「曲だけ なら、アルバム5枚分はストックしてある」と五十嵐さんが語っていたという記述を目にしたことがあるが、そのほとんどは音源化に至らなかったようだ。この時の五十嵐さんと同じように、それまでは驚くべきほどのハードワーカーで、一気に時代の寵児になったが、ある時期を境に沈黙してしまうというミュージシャンを他に知っている。世相を反映させながら、それでも悩みを抱える人たちを鼓舞しようとするタイプの人は、こういった状態に陥りやすいのかもしれない。五十嵐さんについては様々な憶測が飛んだが、結局解散することになった。


delayedead

解散ライブが行われる2008年3月に先駆けて発表された7th『シロップ16g』。既に音源を集め終えて久しかった僕は、えも言われぬ寂しさを抱きながらも発売日に買って聴いた。1曲目の“ニセモノ”から

結局俺はニセモノだった
見世物の不感症

と自分の敗北を率直に告白し、2曲目の“さくら”も

枯れてしまったさくらの花
かき集めているんだろう

と、恋や出会いの象徴として歌われることの多いさくらを用いて、喪失と、それでもすがりつこうとする惨めな姿を表現してみせた。ここまで醜態をさらしたのは五十嵐さんだけだ。トム・ヨークやリヴァース・クオモが通った、苦しみをさらけ出しながら音楽を産み続けるという道程を、表面だけ捉えてサクセス・ストーリーとして解釈し、おこがましくもぞろぞろと付いてゆく宗教家もどきのミュージシャンたちとは違う。初めてシロップを聴いてから、いろいろと日本の音楽にも触れるようになったが、気取ったり隠しごとをしたりせず、ストレートに感情表現を続けたという点において五十嵐さんは唯一無二の存在だった。まぁ……それ以外の曲は正直、あんまり良くない。“シーン・スルー”はオーディナ リー・ボーイズの楽曲“メイビー・サムデイ”の丸パクリのリフを延々弾き続けるという、冗長極まりない楽曲である。例を挙げるとパール・ジャムの“ウィッピング”を引用した“真空”の場合、引用元よりもカッコ良く仕上げていた。音楽に限ったことではないが、五十嵐さんの情報の捉え方、それを音楽に落とし込んでいくセンスは天性のものだと思っていたのだが、この曲を聴くと、わからなくなってしまう。かつて書いた“天才”という曲は、進学校出身で大学浪人を経験した五十嵐さんが「天才だった頃の俺にまた連れてって」と歌うのだが、まさかこの曲を書いた瞬間が、まさにその歌詞に当てはまることになるとは誰も予想できなかったはずだ。


Syrup16g


オーヴァー・ザ・カウンター・カルチャー


『Vitalogy』Pearl Jam

そんなふうに、僕としては何とも言えない苦々しい気持ちになったのだが、ネット上の書き込みなどを見てみると批判的な意見は少なく「五十嵐ありがとうー!」「ずっと聴くよー!」といったコメントが多かった。僕はシロップから「こんな気持ちを抱えているのは僕だけじゃないのかもしれない」ということを教わった気がしていた。それは僕にとって、とても大事な発見だった。だがそのシロップへの想いすらも、僕は多くの人と同じではなかったのだということが少し悲しかったので、気分的にはダブル・パンチを食らったようなものだった。この解散を発表したライヴは観覧しに行っていたのだが、解散告知のMCのあともノリノリで踊っている人を見かけて、世の中にはいろんな人がいるんだなーと思っ た。

解散を告知してから、ロックを扱ういくつかの雑誌が五十嵐さんにインタビューを敢行していたのだが、五十嵐さんは曲を書けないことや、バンド結成時からのメンバーであり、親友であるドラムの中畑さんをシロップに縛りつけてしまうことへの負い目から解散を選んだらしい。中畑さん自身は、自分の実力を試すためにボラ&ザ・オリエンタル・マシーンに参加していると語っていたのだが。そんな中畑さんの言葉を信じられないような状態であったというのだろうか。中畑さんの優しさに甘えているわけにはいかないと考えたのだろうか。自分を責める人なんだろうな、と、今でも思う。そこから生まれるエネルギーこそ、シロップの強みであるとも思うのだけど。

解散ライヴを観てからシロップを聴き返すことはほとんどなかった。そこにこの原稿依頼があったため、2か月ほど前から聴き返していたのだが、全部の曲を口ずさめるほど記憶していたので、自分でも少し驚いた。いろいろ新しい音楽も聴いたし、経験もしたし、考え方も変わったが、やはり五十嵐さんの曲は好きだった。未だに彼にまつわる様々な不幸については腑に落ちないところはあるが、彼がまだ生きているなら、いつかそのうち、ブライアン・ウィルソンや岡村靖幸さんのように活動を再開させるかもしれない。あるいは、庵野秀明さんのように。


『SMILE』Brian Wilson


『エチケット(パープルジャケット)』岡村靖幸


『エチケット(ピンクジャケット)』岡村靖幸


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 EVANGELION:2.22 YOU CAN (NOT) ADVANCE.【通常版】 [Blu-ray]

(初出:2011年9月9日)